名神大 廣田神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社 号 廣田神社(広田神社)
摂津国武庫郡 廣田神社(名神大。月次相甞新甞。)
読み:古 ヒロタ、現 ひろた
所在地 兵庫県西宮市大社町7番7号
旧地名 摂津国武庫郡大社村
御祭神
主祭神
天照大神荒魂 (撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと))
脇殿神
住吉大神・八幡大神・武御名方大神・高皇産霊神

『神社公式サイト』http://www.hirotahonsya.or.jp/

例祭日
年中祭事が行われているが特に大きなお祭りのみ記載

3月16日 廣田神社 御例祭(ごれいさい=ためしのみまつり)【大祭】《萬燈籠》
11月23日 新嘗祭【大祭】

2月下旬〜3月中旬頃 阪神タイガース隆盛必勝祈願祭

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
摂津国:式内社75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
武庫郡(ムコ):4座(大2座・小2座)
式内社(名神大。月次相甞新甞。)、二十二社(下八社)

近代社格制度  旧官幣大社
社格制度廃止後 別表神社

創建     神功皇后元年(西暦201年)
本殿様式   神明造

境内摂末社(祭神)

摂社

境内社
齋殿神社 – 神功皇后の命を受けて、天照大神御魂を広田の地に祀った葉山媛命を祀る。例祭日は5月8日
元は境外にあったが、享保12年に境内に遷座した。

境外社
名次神社 (西宮市名次町5) – 式内社。祭神:水分大神。例祭日は10月11日
元は独立の神社で、明治11年に当社の摂社となった。
岡田神社 (西宮市岡田山4-1) – 式内社「岡太神社」の論社(西宮市小松南町にも論社岡太神社がある)。祭神:天御中主命。例祭日は3月5日
元は独立の神社で、明治11年に当社の摂社となった。
南宮 – 西宮神社境内
『梁塵秘抄』には、諏訪大社、南宮大社、敢国神社と共に、当摂社が南宮として記載されている。何故、南宮と称したのかは不詳。

末社

境内社

伊和志豆神社 – 式内大社論社(宝塚市伊孑志にも論社伊和志津神社がある)。祭神:伊和志豆之大神。例祭日は12月18日
元は独立の神社で、明治6年に村社に列格した。大正6年に広田神社境内へ移転し、第二次大戦で社殿を失い、本殿に合祀された。平成2年に社殿を再建し、末社とされた。
五末社(八坂神社・子安神社・春日神社・地神社・稲荷神社)
松尾神社(大山咋命(おおやまぐいのみこと))

境外社
六甲山神社(石宝殿) – 六甲山山頂近くに鎮座。祭神:菊理媛神。
上記含め、西宮市内に12社の境外社がある。西宮神社(西宮戎)も元は当社の境外摂社であった。

一口メモ

兵庫県第一の古社。西宮市の阪神甲子園球場をホームとする阪神タイガースが祈祷する神社としても知られています。11月中は廣田神社はじめ各神社では七五三詣で賑わっていました。

歴史・由緒等

廣田神社は、神功皇后摂政元年(西暦201年)、国難打破の道を示し、皇子(第15代應神天皇)のご懐妊を告げ、安産を守り、軍船の先鋒となり導き、建国初の海外遠征に大勝利を授けられた天照大御神の御神誨を受けた神功皇后(第14代仲哀天皇のお后)により、御凱旋の帰途、武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に大御神の『荒魂』を国土の鎮め外難の護りとして鎮め祭ったと、『日本書紀』に記されている兵庫県第一の古社です。

御主神の御名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と申し奉り、即ち伊勢の神宮の内宮に御鎮座の天照坐大神の御荒御魂(おんあらみたま)に坐しまし、神功皇后御征韓の時御霊威を示し給える大神なり。又御脇殿奉祀四社は御主神に尤も縁由深き神々にして古くは併せて廣田五社と称せり。

−廣田神社由緒記より抜粋−

沿革

廣田神社は、上代から中古にかけて、国家鎮護・天地自然・立身出世・武運長久に御霊験高き神として、全国的に延喜式内の官幣名神大社として厚遇されました。

「伊勢大神宮御同体」の兵庫県下第一の御社格御由緒の大社として広く崇敬を集め、中世には「西宮参拝」と称して国家の神事を司った神祇官の
歴代長官や公家・五山の僧侶たちが度々に亙って参詣し、物語や和歌・今様・漢詩に多々その痕跡を残しています。

大同元年(806)封戸四十一戸、貞観10年(868)従1位昇叙、延喜年間(901~923)官幣名神大社・相嘗(あいなめ)祈雨の奉幣に列し、正暦2年(991)19社の一社に加えられ、朝廷 より恒例・臨時の奉幣(ほうべい)枚挙たることが古記録に残っています。白河天皇の時代(11世紀末)には、全国神社に冠たる勅祭22社の一社にも県内で唯一社選ばれ、朝廷・公家の篤い崇敬を受けました。

武家の崇敬も篤く、源頼朝は元暦元年(1184)平氏の討伐を祈願して淡路・広田荘を寄進し、豊臣秀頼は慶長9年(1604)大規模な改築を末社・戎社(現在の西宮戎神社)を含み行い、徳川吉宗は現今の地に遷宮しました。

明治4年(1871)には兵庫県内で唯一、最高位である官幣大社に列せられました。

御社殿は、伊勢神宮戦後初の式年遷宮に当たり荒祭宮(あらまつりのみや)旧社殿の譲与を受け、昭和31~38年(1956~63)に神明造にて造営がなされました。

平成13年(2001)には御鎮座1800年の喜節を迎え、天皇陛下よりの御幣帛を奉って式年祭・奉幣奉祝祭を齋行致した廣田神社は、悠久の歴史と高貴な社格、深遠な由緒を有する、日本全国の10万社を代表する1社です。

-『神社公式サイト』より-

境内・社叢

  
大鳥居                        一の注連柱(しめばしら)

「一の注連柱」は震災で崩壊したが平成12年(2000年)に修復。「二の注連柱」は廣田村氏子中により明治13年(1880年)4月に建てられた。

  
二の注連柱                    手水舎

   
狛犬

  
拝殿

  
本殿(神明造)             境内摂社 式内伊和志豆神社(拝殿左)伊和志津神社(宝塚市伊孑志)ともに式内伊和志豆神社論社

  
境内末社 松尾神社                 五末社(八坂神社・子安神社・春日神社・地神社・稲荷神社)

地名・地誌

西宮(にしのみや)

西宮市の名称となった西宮とはここ廣田神社のことである。西宮神社(西宮戎神社)が西宮だと思いがちだが、西宮神社も廣田神社の摂社である南宮神社から戎信仰が興ったとの説がある。

以下、『神社公式サイト』
廣田神社は、京の都から西方にある特別に重要な神社ですので、中世の貴族達は「西宮」と別称し、当社への参拝を「西宮」参拝、「西宮」下向と称しました。平安時代の百科事典である『伊呂波字類抄』をはじめ、本居宣長『古事記伝』、伴信友『神名帳考証』にも廣田神社を【西宮】と称したことが記されています。後に、「西宮」の語は廣田神社の荘園である廣田神郷(神戸市東部〜尼崎西部、有馬、猪名川に及ぶ)全体の地名として使われるようになり、近世には末社の南宮や、戎社(現在の西宮戎神社)のある浜南宮を中心とした地域(旧西宮町)の地名となり、現在は西宮市の名称へと受け継がれています。
『神社公式サイト』

「西宮」という名称の起こりについては諸説あるが、戎神を最初におまつりしていたと伝えられる鳴尾や古代の先進地域である津門から見て「西の方の宮」という説や平安京(京都)から見て貴族の崇敬篤き廣田神社を含む神社群を指して「西宮」と称していたが、戎神信仰の隆盛と共に戎社(西宮神社)を「西宮」と限定して呼ぶようになったという説などが有力。
(ウィキペディア)

主な沿革

1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、武庫郡西宮町・大社村・今津村・芝村・甲東村・瓦木村・鳴尾村、有馬郡山口村・塩瀬村が発足。
1925年(大正14年)4月1日 西宮町が単独で市制を施行、西宮市となる。同時に市章を制定する。
1933年(昭和8年)4月1日 今津町、芝村、大社村を編入合併する。
1941年(昭和16年)2月11日 甲東村を編入合併する。
1942年(昭和17年)5月1日 瓦木村を編入合併する。
1951年(昭和26年)4月1日 鳴尾村、山口村、塩瀬村を編入合併する。

地 図

交通アクセス・周辺情報

鉄道・バス
西宮北口駅(阪急神戸線)から、阪急バス(甲東園行き)で「広田神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
西宮駅(JR神戸線)から、阪急バス(甲東園行き)で「広田神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
西宮駅(阪神本線)から、阪神バス(山手東廻り)で「広田神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
車 無料駐車場

参 考

『神社公式サイト』他

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