名神大 戸神社(豊岡市日高町十戸)
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概 要
社号 式内社 気多郡太多郷 戸神社
十戸神社とも云う。
読み:古 ト・ヘ、現 との
所在地 兵庫県豊岡市日高町十戸字野18-1
旧地名 気多郡太多郷戸ノ村
御祭神
『国司文書 但馬神社系譜伝』 将軍田道公命(
※『国司文書 但馬故事記』註記に「一に田路と書す)とあるので、読みは「トウジ」かもしれない。止美は戸の部(集落)でのちに十戸と書す。いつ頃からか「とべ」から「じゅうご」と読むようになったものであろう。
例祭日 10月9日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡[ケタ]:21座 大4 小17
式内社(名神大)
『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
近代社格制度 旧村社、神饌幣帛料供進指定神社
創建 不詳(『国司文書 但馬故事記』人皇31代敏達天皇十三年春3月)
本殿様式 春日造 柿葺
境内摂社(祭神)
厳島神社・名草神社
一口メモ
戸は「へ」と呼び、大戸比賣命から来たものなのか、あるいは社を司る神戸(カンベ)の意味なのか、そのカンドコロとして神社を建てたものだとも考えられます。また世帯を意味する戸(コ)で、十戸(じゅうご)という地名は、十戸の家族が早くから住み、神鍋から円山川に向かう交通往来の多い場所にあり、国道482号に面していますが、一歩境内に入ると静寂な別世界のようです。
歴史・由緒等
由 緒
創立年月は不詳であるが、往古は但馬国の名神大社十社中の一社に数えられた古社である。御祭神は亦の名を奥津比売神と申し、竃を司る神である。品陀和気命は合祀した神で八幡神である。続日本紀の承和9年(842)冬10月に「戸神官社に預る」とみえ、三代実録には、貞観10年(868)神階従五位下から従五位上に進叙し、延喜式神名帳に戸神社名神大と載っている。
又、鎌倉時代に神田49反300歩を有したとも伝えられている。
かつて中世の頃は近在5ヶ村の氏神であったが、今は十戸地区のみの氏神となっている。
その後、由緒を称する資料がなく、明治6年(1873)村社に列し、同42年(1909)10戸区内にあった八幡神社と三柱神社を当社に合祀し、大正5年(1916)神饌幣帛料供進指定神社となった。
御社殿は、宝暦9年(1759)に本殿を再建した記録があるが、現存の本殿内宮は春日造りで文化7年(1810)の造営である。
大正2年(1913)に幣殿と拝殿を新築し、昭和41年(1966)本殿覆殿が老朽のためこれを新築、同50年(1975)には拝殿、幣殿の屋根銅板葺替を行った。
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇41代持統天皇の巳丑(みうし)3年(690)秋7月、
多遅麻少穀 忍海部(おしぬみべ)の広足これを祀る。
『国司文書 但馬故事記』(第一巻 気多郡故事記)
人皇31代敏達天皇十三年春3月、
止美連吉雄をもって、多遅麻国造となす。
吉雄は、その祖 大荒田別命の子 多奇波世君の弟・田道公を多他村に祀り、止美神社と称えまつる。また多他毘売命を多他丘に祀り、太多神社と称えまつる。
田道公の子孫は田道村に在り、田道公を斎き祀る。これ田道に坐(いま)す一宮神社これなり。
人皇41代持統天皇の巳丑(みうし)3年(690)秋7月、
左右の京職および諸国の国司に命令して的場(イクイバ)を設け、築かしむ。
国司務広参*1、榛原公鹿我麿は、気多郡馬方原に的場(イクハバ)を設け、的臣羽知(いくはおみのはぢ)をもって令(長官)としました。的臣羽知はその祖・葛城城襲津彦命(かつらぎ の そつひこのみこと)を馬方原に祀り、的場神社と称しました。(今の萬場神社:豊岡市日高町)
巳丑3年(690)閏8月、忍海部(おしぬみべ)の広足を、但馬の大穀(ダイキ)*2とし、生民四分の一を点呼し、武事を講習させました。
広足は陣法に詳しく、兼ねて経典に通じ、神祀を崇敬し、礼典を始めました。
すぐに、兵主神を久斗村の兵庫のかたわらに祀り(式内久刀寸兵主神社)、
高負神を高田丘(矢集のち夏栗)に祀り(式内高負神社)、
大売布命(おおめふのみこと)を射楯丘(石立、のち国分寺)に祀り(式内売布神社)、
軍団の守護神とし、軍団守護の三神と称えました。
また将軍・田道公を崇敬し、田道公の神霊を止美(とべ)丘に斎き祀り、これを戸神社と称えました。
(十戸(じゅうご)は止美(とべ)の転音。名神大 戸神社:豊岡市日高町十戸)
かつまた、楯石連小禰布に命じて、縦石連大禰布を楯石丘(楯石神社古社地:豊岡市日高町祢布)に祀らせ、太多公に多他別命を多他丘に祀らせました。(楯石神社 豊岡市日高町祢布字城山446)
その他、矢作神社・栗栖神社等を旧によりこれを復元させました。
*2 大穀(ダイキ) 軍団のトップ。
御由緒
創立年月は不詳だが、往古は但馬国の名神大社十社中の一社に数えられた古社だ。御祭神は亦の名を奥津比売神と申し、竃(かまど)を司る神。品陀和気命は合祀した神で八幡神だ。
続日本紀の承和九年冬十月に「戸神官社に預る」とみえ、三代実録には、貞観十年神階従五位下から従五位上に進叙し、延喜式神名帳に戸神社名神大と載っている。又、鎌倉時代に神田四十九反三百歩を有したとも伝えられている。
その後、由緒を称する資料がなく、明治六年村社に列し、同四十二年十戸区内にあった八幡神社と三柱神社を当社に合祀し、大正五年神饌幣帛料供進指定神社となった。御社殿は、宝暦九年に本殿を再建した記録がありますが、現存の本殿内宮は春日造りで文化七年の造営である。大正二年に幣殿と拝殿を新築し、昭和四十一年本殿覆殿が老朽のためこれを新築、同五十年には拝殿、幣殿、屋根銅板葺替を行われました。
奥津日子神 / 奥津比売神
大戸比賣命の別名が奥津比売神
奥津日子神、奥津比売神は、日常の食べ物を煮炊きし、命をつなぐ大事な竈(カマド)を司る神。昔は、かまどの煙が家の盛衰の象徴でもあった。 今でも地方の町や農村の旧家などには、台所に神棚が設けられていたり、お札が張ってあったりする。
神話で父とされる大年神は、穀物の守護神、稲の実りの神であるから、そもそもこの二神は中心的な火の神の機能と同時に豊穣神的な要素を強く持っているのである。
境内・社叢
神社入口 社号標
鳥居 随身門
二の鳥居 拝殿
本殿・拝殿 拝殿から本殿
境内社 境内社
地名・地誌
十戸(じゅうご)
十戸の漢字から神戸から由来するのかと、長い間思っていたが、どうやら漢字に意味はないようだ。
『国司文書 但馬神社系譜伝』には、戸の村とある。古くは止美と書いた。
止美の読み方が不明だが、トビでもトミでもなく、止美の字が、戸ノ村、十戸となるには、トベではないだろうか。戸神社は、元々どう読むのか、随分考えてきた。延喜式神名帳や『国司文書 但馬神社系譜伝』でもトノカミヤシロと読みがながあり、ヘも併記されているので、どちらの読み方もあったらしい。
『国司文書 但馬郷名記抄』にみつけた。
止美村
田道公の裔、止美連吉雄の子孫在住の地なり。この故に名づく。田道公を止美村に祀る。止美、今は止辺というなり。
これだ。
トベで正解。いつからか止美が十戸と書くようになり、
十戸(トベ)がジュウゴと読むようになったと思われる。
『国司文書 但馬故事記─第一巻・気多郡故事記』に、
人皇十六代仁徳天皇元年五月 将軍荒田別命は、御子 多奇波世(タケハセ)君の弟 田道公を山口邑に置き、田道公の子 多田毘古を多他邑(太田)に置く。
山口邑(村)とはどこなのか。山の口は山の宮(山神社)の口をさすのか、太多・多他(太田)の神鍋山をさすのか分からないが、太田への旧道は山神社につながっていたと思われる。
『国司文書 但馬神社系譜伝』に山神社は
太多郷 山ノ神社
気多郡山守(ママ)部村鎮座
山守部は、原本によれば「山間郡村」とあるが、但記・大観録・郷名記・世継記などによって「山守部」と改めた。
止美村が今の十戸とあるので、今の山宮から栃本辺りだろうと思う。
田道は田道公(一に田路と書す)とあるように、「田路=トウジ・トジ」ならトジの元がトチモトに転訛したものと想像する。石井のご老人が「石井の村と田んぼはここいらでは大部落で、十戸の田んぼあたりも字は石井なんじゃ」と、お話されていたことも気になる。
田道とは石井のことではないだろうかと。
地図
交通アクセス・周辺情報
参 考
國學院大學「神道・神社史料集成」、「兵庫県神社庁」、「延喜式神社の調査」さん、「神奈備へようこそ-延喜式神名帳」さん、他