名神大 長田神社
Contents
概 要
社 号 長田神社
読み:ながた
通称名 長田さん
延喜式神名帳 式内社 摂津国八部郡 長田神社
所在地 神戸市長田区長田町3-1-1
旧地名 摂津国八部郡
御祭神
主祭神 事代主神(ことしろぬしのかみ)
例祭日 10月18日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
摂津国:式内社75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
八部郡[ヤタベ]:三座 大二座 小一座
式内社(名神大)
近代社格制度 旧官幣中社
社格制度廃止後
創建 伝・201年(神功皇后摂政元年)
寛文元年(1661)の社殿が大正13年1月漏電により炎上、昭和3年に再建。
本殿様式 三間社流造
境内摂末社(祭神)
本殿瑞垣内 本殿左 天照皇大御神社(天照大御神) 本殿右 八幡社(応神天皇)
本殿東側 月読社(月読神) 松尾社(大山咋神・春日大神)
本殿西側 出雲社(大国主神)蛭子社(蛭子神)
本殿北 楠宮稲荷社(倉稲魂神)
文化財
黒漆金銅装神輿(国指定・重要文化財)
長田神社古式追儺式(県指定・重要無形民俗文化財)
御本殿以下諸社殿十六件(国指定・登録有形文化財)
太刀拵(兵庫県指定・重要有形文化財)
石灯籠(兵庫県指定・重要有形文化財旧重要美術品)
長田神社のクスノキ・二本(神戸市指定・天然記念物)
一口メモ
神戸市内の式内社でで残る数社だった。時間が閉門していたので暫定です。
歴史・由緒等
鎮座と沿革
神功皇后(じんぐうこうごう)摂政元年春2月、皇后が新羅より御帰還の途中、武庫の水門に於て「吾 (あ)を御心(みこころ)長田の国 に祠(まつ)れ」とのお告げを受けて、山背根子の女・長媛(ながひめ)を奉仕者として創祀された全国有数の名大社である。(日本書紀 神功皇后摂政元年条 西暦201年と伝える)
古来、皇室をはじめ武門の崇敬あつく、延喜式の制では名神大社 更には祈雨八十五座に列し、神戸(かんべ)41戸もって奉祀護持され、今日の神戸発展の守護神と仰がれている。神戸の地名はこの神戸(かんべ)に由来する。
日本書紀に云う長田国は、東は湊川(現新開地)、西は須磨一ノ谷(摂津・播磨の国境)を云い、その中央を流れる苅藻川の中州に奉斎された。現在の長田区、兵庫区、須磨区、北区南部を云う。
又、古伝によれば「鶏鳴の聞こゆる里は、吾が有縁の地なり」とのお告げにより、にわとりが神の使いと尊ばれ、奉賽の鶏が境内に群れ遊び、外国人より「チキンテンプル」と親しまれた。
明治29年、官幣中社に列格。
神戸市内では、戦災を免がれた唯一の大社殿で、昭和36年から38年にかけて漆下地丹塗・丹青彩色の修復が施され再建時の秀麗さが再現され、又社務所、儀式殿が竣工した。
更に昭和55年10月には御再建50年御修造事業により本殿はじめ諸社殿、神門・廻廊等の屋根葺替・再度の塗替を施行、近代的な参集殿、宝物庫、茶室兼参寵所が完成、社頭の面目を一新した。
阪神淡路大震災
先の阪神淡路大震災(平成7年1月17日発生)により、御社殿は甚大な被害を受け、倒壊を免れたものの本殿以下社殿は東西に動き南北に傾斜の半壊に近い状態となり、附属舎の全壊、又慶安三年(1651)奉納の馬場先大鳥居を始め四基の大鳥居、約80基の灯籠並び石造物は全て損壊した。
仮復旧を施し、平成9年6月震災復旧奉賛会を結成、氏子崇敬者の厚い崇敬の奉賽により三ヶ年の時期と約3億円を以て社頭は震災前の佇いとなり、平成12年7月14日震災復旧事業竣工奉告祭が斎行された。
又、震災当日より近隣の被災住民の困窮に応え、参集殿を臨時避難所として提供し水道・ガスの不通の不便の中ながら約1ヶ月間150名程が居住、境内は連絡場所並び炊き出し拠点として解放し、地域社会に対する貢献の一端を果たした。
-『神社公式サイト』より-
境内・社叢
鳥居 東鳥居
鳥居 手水舎
社頭掲示板
随神門
拝殿
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
阪神電気鉄道 高速長田駅から北へ600m
神戸市営地下鉄 長田駅から北へ500m
神戸市バス 神戸駅・兵庫駅からの3・4系統、または新長田駅からの17系統で「長田神社前」で下車すぐ
車 駐車場なし(神社前に小さなタイムズ駐車場があるので利用した)
ホームページ 『神社公式サイト』
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