国原神社(式内 久尓原神社)
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概 要
社号 式内社 丹後国竹野郡 久尓原神社
読み:古 クニハラ、現 くにはら
江戸時代は「高田大明神」と称していた
所在地 京都府京丹後市弥栄町国久字石ヶ元214
旧地名 丹後国竹野郡
御祭神 国常立神(クニノトコタチノカミ)
例祭日 10月10日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
竹野郡(タカノ):14座(大1座・小13座)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 流造
境内摂社(祭神)
一口メモ
黒部銚子山古墳に近い国道482号から竹野川を渡って西岸の府道656号の国久集落入り口の公園前の小高い丘。長い石段が山頂まで一直線に伸びている。見る分にはきれいだが・・・きつかった。
歴史・由緒等
由緒等: 創立は不詳。
『丹府志』には「久尓原神社今高田大明神と称す」とあり、 又當杜に伝はる由來記によると「応永十二年春、大和の国宇多郡より此神霊を請ひ來りて、 高田の森に安置す。此の森に高さ八十丈、周り十五囲に餘る大杉あり、此の木の本に神社を営み遷宮せしめ国原大明神と崇め奉る。
此の国原大明紳の神霊は天神七代の元神国常立尊なり。日本開闢の神なり。尊崇すべし。諾神の内にても感応第一の神なり」とある。
さらに神杜明細帳には、「猿田彦大神は俗に庚申と称し、辻堂において祭り來りしが、明治二年十一月神社調の際当社へ遷し相殿とす。 (中略)国原神社の本杜は小字高田にありしが、明治四十三年四月是を杉森神社に合併し更に、国原神社と改称す。
大正三年接続地山林二段一畝二十歩を合し、総べて境内地に編入をなせり」と載せてゐる。 なほ明治四年五月、村社に指定された。旧鎮座地の「高田の森」は国久集落から南へ約五〇〇メートルの水田の中にある丘で、 今は樹木はなく地膚をのぞかせてゐる。大杉のあつたころは、その日影が国久まで屈いたといふ。
≪式内社調査報告書 第十九巻 山陰1の「久尓原神社」由緒より抜粋≫
丹後地方の社日塔
丹後地方の式内社には、但馬には見られない、「社日(しゃじつ)」という六角形の石柱が神社境内にあるのが共通している。式内社以外は知らないけど、刻まれている神名は応神天皇、豊受大神、大己貴尊(オオナムチノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)など決まっている。出雲には見かけることもある。
境内・社叢
鳥居 参道石段
境内 社日塔
本殿覆屋
本殿
社日(しゃじつ)塔
丹後地方の式内社には、他の地域(旧国)には見られない、「社日(しゃじつ)」という六角形の石柱が神社境内にあるのが共通している。式内社以外は知らないけど、刻まれている神名は応神天皇、豊受大神、大己貴尊(オオナムチノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)など決まっている。
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