式内 乃伎多神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 乃伎多神社
読 み のぎたじんじゃ
式内社 近江国伊香郡 乃伎多神社
別 名 江戸時代は「野北八幡」

所在地 滋賀県長浜市高月町東阿閉1094
御祭神 誉田別命ホムダワケノミコト(応神天皇) 天造日女命アメノミヤツコヒメノミコト
延経『神名帳考証』伴信友『神名帳考証』味饒田命ウマシニギタノミコト
御神紋 左三ツ巴
例祭日 9月13日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
東山道 式内社382座 大42(うち預月次新嘗5) 小340
近江国 155座 大 13座 小 142座
伊香郡 46座  大1座  小45座

式内乃伎多神社論社
乃伎多神社 滋賀県長浜市高月町東阿閉1094
乃伎多神社 滋賀県長浜市高月町東物部850

近代社格制度 旧村社
創建   年代不詳
本殿様式 一間社流造檜皮葺
拝殿様式 入母屋造 間口二間三尺 奥行二間一尺

境内摂末社(祭神)

神明社

一口メモ

JR高月駅の西南。県道252号線が90度右に曲がる東阿閉の西の端に鎮座する。式内乃伎多神社論社は他にも東物部にある。すぐ西の西阿閉に式内意波閇神社(論社)がある。東物部にある式内乃伎多神社論社は味饒田命であり、物部氏の祖神、饒速日命の孫であり、水田の神。

歴史・由緒等

本社は古書諸社根元記に伝えられる近江国の気多明神様で戦国武門の繁栄と共に八幡の大神を合祀して崇敬せられ北八幡宮とも呼ばれました。其昔後光厳天皇が堅田より塩津を経て美濃の国へ御幸の際御参籠になったと伝えられ今も地名に高座御座畑御幸街道等と云う名跡が残って当時の有様が偲ばれます。
本社のお祭りは昔からもろこの祭即ち諸子或ひは諸戸の祭と云われ今で云えば一般大衆挙てのお祭りと云った事であります。
例祭9月13日に初秋天高肥馬の折柄もろもろの子が競って小川の鮮魚を補って神様にお供えしたところから後世モロコ祭と異名せられるようになりました。
私たちの祖先が代々連綿と日夕お敬ひをし五穀豊穣を祈り豊作感謝のお祭りを行ひ子孫の繁栄を願っては産児の初宮詣でに子供の幸運を祈願せられたお宮であります。
宮司 阿閉真雄 識

「社頭掲示板」

当社は「諸者根元記」に伝える近江の国の気多明神で「乃伎多」の「伎多」の音「気多」に訛ったものが後世、気多明神と称えるに至らしめた。この地一体往昔、安曇の郷と称して安曇連の裔族此地に繁延し、その祖を祀ったものと伝える。当社に誉田別命、この地の西方数町の山本山に神社鎮座の地名に負える阿閑淡路守の城くありて、小谷山の浅井氏と呼応した。おそらくその当時この武門が勧請し守護神と崇め祀られ北の八幡宮とも称せられた。天正の賤ヶ獄戦の兵火に社殿炎上し、現在の社殿は寛政9年の造営と記録せられる。当社に古くから「もろこ祭」と称する祭儀が行われた。その本儀は「諸児の祭」で氏子中の稚児の生長を祈ったものであるが、今は9月13日の例大祭に併せ行われ居り、今も「もろこ」を献ずるのである。延喜式内社。(論社)明治9年村社に列し、明治42年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。

「滋賀県神社庁」

境内・社叢

  
鳥居                       社号標

  
手水舎                      拝殿 本社の左は薬師堂


本殿覆屋

  
右手境内社 不動明王               神明社

地名・地誌

地 図

滋賀県長浜市高月町東阿閉1094

交通アクセス・周辺情報

参 考

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