式内 久々比神社
Contents
概 要
社 号 久久比神社
式内社 但馬国城崎郡 久久比神社
読み 古 ククヒ、現 くくひ
所在地 兵庫県豊岡市下宮318-2
旧地名 但馬国城崎郡三江郷
御祭神 久久遲命(ククノチ)
あるいは 物部韓国連久々比命(もののべからくにのむらじくぐひのみこと)
あるいは 多紀理比売命(タギリヒメ)
あるいは 天湯河板拳命(アメノユガワタナ)
『国司文書 但馬神社系譜伝』 物部韓国連久々比命(くぐひ のみこと 城崎郡司)
例祭日 10月15日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座 大37座(就中一座月次新嘗)小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
城崎郡[キノサキ]:21座 大1小20
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
本殿様式 流造
境内摂社(祭神)
文化財
本殿 国指定重要文化財
一口メモ
国道312号線を久美浜へ越える途中、下宮地蔵東(交差点)のすぐ北隣。日本唯一のコウノトリを野生化飼育する県立コウノトリの郷公園にも近い。2006年8月依頼再訪。
田舎の神社に過ぎなかったが、二〇〇五年九月、人工飼育した国の特別天然記念物コウノトリを自然界に返す放鳥が始まった。その手で放たれた秋篠宮ご夫妻が翌年の歌会始の儀で、その様子を詠み、直後に紀子さまのご懐妊が判明。県立コウノトリの郷公園に近いこの神社も注目を集めた。大手の旅行代理店が、神社をコウノトリ見学の行程に組み込むようになった。朱色の欄干に、コウノトリの絵が飾られた小さな橋を渡って本殿へ。奉納された数多くの絵馬が目に入ってくる。コウノトリの親鳥とひなを描いた絵馬には「子宝に恵まれますように」「元気な赤ちゃんが生まれますように」などと、願いがつづられている。
「神戸新聞」より
豊岡駅からは、大きな道のルートが3つあって至便だが、一番わかり安いのは、 大開通を東に100 m進み、アイティの東角で左折して、1.1 km、宮島(交差点) を右折して 国道178号線 に入る。円山大橋を渡り2.8 kmで下宮地蔵東(交差点) を左折する。
歴史・由緒等
室町末期の建物と推定され、三間社流造の本殿は、中嶋神社・酒垂神社とともに国の重要文化財に指定されている。
現在、御祭神のククノチ(クグノチとも)は、日本神話に登場する木の神である。『古事記』では久久能智神、『日本書紀』では句句廼馳と表記する。
神産みにおいて、イザナギ・イザナミの間に産まれた神である。『古事記』においてはその次に山の神大山津見神(オオヤマツミ)、野の神鹿屋野比売(カヤノヒメ)が産まれている。『日本書紀』の本文では山・川・海の次に「木の精ククノチ」として産まれており、その次に草の精・野の精の草野姫(カヤノヒメ)が産まれている。第六の一書では「木の神たちを句句廼馳という」と記述され、木の神々の総称となっている。
神名の「クク」は、茎と同根で木が真っ直に立ち伸びる様を形容する言葉とも、木木(キキ・キギ)が転じてクク・クグになったものともいう。
公智神社(兵庫県西宮市)の主祭神になっている。木魂神社という名のククノチ神を祭る神社も複数ある。樽前山神社(北海道苫小牧市)では原野の神・開拓の神として大山津見神・鹿屋野比売神とともに祀られている。
『延喜式』「祝詞」には屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)の名が見え、ククノチと同神と見られる。屋船久久遅命は上棟式の祭神の一つとされる。
ところが、『国司文書 但馬故事記』『国司文書 但馬神社系譜伝』によれば、祭神は城崎郡司であった久々比命だと書されている。
『国司文書 但馬故事記』 第四巻城崎郡故事記には、
人皇四十二代天武天皇元年秋十月、物部韓国連久々比卒す。三江村に葬り、其の霊を三江村に祀り、久々比神社と称し祀る。(久々比は鵠の倭名)
『国司文書 但馬神社系譜伝』には、
三江郷 久々比神社 城崎郡御贅村鎮座
祭神 物部韓国連久々比命
人皇四十二代天武天皇の三年夏六月、物部韓国連神津主の子 久々比、城崎郡司となり、人皇四十二代文武天皇の大宝元年(701)秋卒す。三江村に葬り、祠を建て、これを祀る。
大売布命の裔 韓国連は、武烈天皇の勅を奉じ、韓国に遣わし、復奏の日『物部韓国連』の姓を賜る。
※連は「むらじ」姓は「かばね」
コウノトリ伝説
日本書紀によれば垂仁天皇の御字二十三年の冬十月、天皇が誉津別皇子(ホムツワケノオウジ)を伴い宮殿の前に立たれた時、鵠(クグヒ=コウノトリ、白鳥の呼称)が大空を鳴きながら飛んでいった。その時、皇子が「これは何という名の鳥だ。」とお問いになったので、天皇は大変喜ばれ、懐手の者に、「誰かあの鳥を捕まえて献上しなさい。」とおっしゃいました。
天湯河板挙(あまのゆかわたな)が「私が必ず捕らえて献上します。」と申し出て、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲の国で捕らえたといい、あるいは但馬国で捕らえたともいわれる。コウノトリを捕らえ、献上したのである。その時に息子は三十歳であったが、まだ言葉を話すことができず、まるで赤ん坊の鳴き声のような声でしかでなかったが、この日初めて人並みのことばをお話しになられたのである。
このようにコウノトリは霊鳥なのでその棲んでいる土地を久々比(ククヒ)と呼び、その後この土地に神社を建て、木の神「久々遅命(ククノチノミコト)をお祀りした。これが久々比神社の始まりであった。
ところで、その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といって入り江であった。下宮はその入り江の汀(なぎさ)であった。また、そのあたりは樹木繁茂し、木霊のこもるところ、神自ら鎮まり座す景勝の地であった。私たちの先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久々遅命」を奉齋し、その御神徳の宏大にしたのも当然のことであろう。
久々比・鵠
鵠:クグイ(古 クグヒ)。[音]コク(漢) [訓]くぐい まと。
鴻鵠という述語がある。
「鴻」はおおとり、「鵠」はくぐいで、ともに大きな鳥》大人物のたとえ。
鴻鵠の志【コウコクノココロザシ】《「史記」陳渉世家から》大人物の志。壮大な考えのたとえ。大鴻の志。コウノトリは、鸛:[音]カン [訓]こうのとり。鸛、鵠の鳥。地元豊岡では鴻の鳥と書くのが一般的。
一般的に鵠は、白鳥(はくちょう)の古名とされるが、ハクチョウは、日本にはオオハクチョウとコハクチョウが越冬のために渡ってきて、北海道や本州の湖沼、河川等で過ごす。新潟あたりまでで、近畿から山陰には飛来しないのと、コウノトリは、昔は本州一帯に数多く生息していた最大の白い大鳥であるから、久々比(鵠)はコウノトリを指していると考えていいだろう。しかし、白鳥は鳴くが、コウノトリは鳴かない鳥なので、日本書紀は、「鵠(クグヒ)が大空を鳴きながら飛んでいった」は、編纂者の脚色であるといえよう。羽を広げると2mもあり、サギよりずっと大きく、その飛ぶ雄大な姿は、他の鳥に類がない。ぜひ一度、コウノトリの郷公園で実際に飛んでいる姿をご覧いただけば誉津別皇子(ホムツワケノオウジ)同様に感動されるに違いない。
当初は、大宝元年(701)秋、城崎郡司 物部韓国連神津主の子 久々比が卒し、三江村に葬り、祠を建て、これを祀ったのが起源で、何時頃からか、久々比が現祭神 木の神である久久遲命(ククノチ)とされたようである。
境内・社叢
社叢 鳥居・参道
社号標 二の鳥居
割拝殿 手水
狛犬
拝殿
本殿(国指定重要文化財) 正面に鵠(クグヒ)らしい彫刻
ピンぼけしているが扁額には「胸形大明神」とある
境内左 三柱社(少彦名命)と稲荷社(保食神) 境内右 八幡社(事代主命)
地名・地誌
城崎郡三江(みえ)郷
『国司文書 但馬郷名記抄』に、
御贅郷「ミニエ」
古語は美爾依。小田井県大神(小田井神社)御贄の地なり。この故に名づく。
村…神田(カムタ)・神服部(カムハタベ)・神酒所(ミキト)(省略)
※贄や御贄(みにえ)、大贄(おおにえ)
神事の際などに貢がれる神饌。御食(みけつ)は、皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を貢いだと推定される。
※鎌田は神田(かむた)が転化したのではないだろうか?
『校捕但馬考』(桜井勉)三江郷の頁に、「太田文曰く、上三江庄、下三江庄、…
今の村数
庄境、鎌田、南谷、祥雲寺、法華寺、馬路、下(ノ)宮、梶原、火撫(日撫)
右鎌田(ノ)庄と云う。
山本、金剛寺、舟町、宮島、森、野上
右を田結(ノ)庄と云うは、鶴城に田結庄右近将監の居られしよりいいならわしたるなり。
太田文に下三江庄を一名鎌田庄と云って、三江郷はこの地なるは明らかなり。」
三江村
明治4年の廃藩置県で、但馬8郡、丹波3郡、丹後5郡を管地する豊岡県が設置。
昭和18年に田鶴野村及び三江村が豊岡町と合併。
1950年(昭和25年)4月1日:城崎郡豊岡町、五荘村、新田村、中筋村が新設合併し、豊岡市発足。
地 図
交通アクセス・周辺情報
コウノトリの郷公園(祥雲寺)・式内酒垂神社(国重要文化財)
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