式内 伊和志豆神社(広田神社境内末社)

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社号 式内社 摂津国武庫郡 伊和志豆神社
読み:古 イワシツ、現 いわしづ
所在地 兵庫県西宮市大社町7-7
旧地名 摂津国武庫郡
宝塚市伊孑志にも論社伊和志津神社
御祭神
伊和志豆之大神
一節には彦坐命(ひきいますのみこと)

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
摂津国:式内社75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
武庫郡(ムコ):4座(大2座・小2座)
式内社

近代社格制度 旧村社

創建     年代不詳。もと広田本社より東南1.5kmに在り、大正6年7月17日に広田神社境内へ移転。戦災後は本社に合祀した。平成2年御大典に社殿を再建した。
本殿様式   石祠

一口メモ

延喜式の武庫郡式内社伊和志豆神社は、当神社と宝塚市伊孑志の伊和志津神社が論社となっている。

歴史・由緒等

延喜式内社伊和志豆神社
御祭神 伊和志豆之大神
創立年代は詳でないか清和天皇貞観元年(859)正月27日従五位下より従五位上に.進み、延喜の制には官幣小社に列せられる。 室町時代には白川神祇伯の祓を修あいた六社の内の一社として厚い崇敬を集めていた。
御祭神は一説によれば彦坐命 開化天皇 の皇子なる白子坐王で広田袖社を創建せられた神功皇后はその四世の孫に当たるを祀祀るといわれている。
もとは広田本社より東南約1.5kmのところに在り、大正6年7月16日に広田神社の境内に移転いたが、戦後は本社に合氾していた。 平成二年の御大典にあたり社傳を再建し奉斎することになった。兵庫果武庫郡の式内社は広田神社本社、摂社名次神社 摂社 岡田太神社 伊和志豆神社の4社でいずれもは広田神社の所管である。
社頭掲示板
-阜嵐健『延喜式神社の調査』さんより-

延喜式神名帳に、『摂津国武庫郡 伊和志豆神社 大 月次新嘗』とある式内社だが、宝塚市伊孑志町(イソシ)および西宮市広田町(広田神社内)に鎮座する2社が論社となっている。
廣田神社の社頭掲示板によると、元は広田本社より東南1.5kmに在り、大正6年7月17日に広田神社境内へ移転とあるので、古社地はここではない。広田本社より東南約1.5kmのところをGoogle mapで調べると平木中学校当たりである。古史料では“鰯津社”と記し伊和志豆社との表記はないという。宝塚市伊和志津神社の創建は遅くとも9世紀以前であるが、 一帯は8世紀後半から伊蘇志臣(いそしのおみ)が拠点としていた地であり、この時期に伊蘇志臣が創建した可能性がある。
上古、廣田神社近くまで瀬戸内海の入江で武庫泊(むこのとまり)といわれた古代の港であったこと、「住吉(すみのえ)の得名津(えなつ)に立ちて見渡せば―ゆ出づる舟人」〈万・二八三〉。また鰯津社と記されていたので鰯津とも呼ばれていたのであろう。イワシはもちろん海の魚であり、イワシがたくさん穫れたから鰯津だろう。伊蘇志臣とは磯氏の万葉仮名の当て字だとすれば、海の磯に住み着いた氏族であったことは間違いなかろう。武庫川は廣田神社から伊和志津神社のある宝塚市伊孑志当たりまで入江だったと思われる。宝塚市の伊和志津神社と広田本社より東南約1.5km当たりの伊和志豆社古社地とされる場所とは、武庫川沿いに6.5kmしかない。

境内・社叢


例祭日12月18日 伊和志豆神社例祭

地名・地誌

地 図

兵庫県西宮市大社町7-7

交通アクセス・周辺情報

参 考

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