式内 伊我多気神社
Contents
概 要
社 号 式内 伊我多氣神社
式内社 出雲国仁多郡 伊我多氣神社
読み:古 イカタケ、現 いがたけ
『出雲国風土記』伊我多氣社
江戸時代は「五十猛神社」と称していた
所在地 島根県仁多郡奥出雲町横田1278
旧地名 出雲国仁多郡
御祭神
五十猛命(いそたけるのみこと)
配 素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)
例祭日祈年祭 四月八日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
出雲国:大2座・小185座
仁多郡[ニイタ]:2座並小
式内社
近代社格制度 旧郷社
創建 不詳
本殿様式 大社造檜皮葺
例大祭十一月八日
新嘗祭十二月八日
境内摂末社(祭神)
恵比須神社・金刀比羅神社
文化財
木造 随神立像 二駆
木造 獅子頭 一頭
共に島根県文化財
一口メモ
島根県最南端に位置する式内社。仁多郡は奥出雲といわれが、式内社は2社のみ。鳥取県日野町の金持神社から、国道181号線から180号線へ左折し、日野川沿いをしばらく走て日南町から県道15号線を県境の龍駒峠を越える。神社巡りで山道には慣れてはいるが、狭い細い沢沿いの林道が続く。横田町中心部で県道107号線北に面している。
歴史・由緒等
伊賀多気神社略記
伊賀多氣神社は、垂仁天皇の御代に創建せられた延喜式内の古社にして、出雲風土記に神祇官社・延喜之制・小社とせられている。御鎮座地は古代横田庄と云い仙洞院御料地であった。然し乍ら戦国時代の戦火に罹り御社殿・社家共に炎上し古資料を失ったことは誠に残念てある。
御主祭神は、素盞鳴尊の御子神五十猛命である。相殿として素盞鳴尊大己貴命を合せ一祀っている。父神素盞鳴尊が姉神天照皇大神のおいかりにふれられ、高天原を逐はれ朝鮮の新羅国曽尸茂梨の地に降られた時、父神と共に降られ父神をたすけられた。後に父神が本土へお帰りの折お供をし五十猛(大田市)の浦へ着かれた。その時命は曽尸茂梨より樹木の種子をお特ち帰りになった。父神と共に簸乃川上にのぼられ、稲田の里にて稲田の地頭・脚摩乳、妻の摩乳より「オロチ」の被害を聞かれ、父神と共に烏髪山(舟通山)に登られ、オロチ族の鉄穴流し(鉄の原料である砂鉄を採るため山を崩して流す)のため四方の山々が禿山となっており、これでは雨期に洪水となり人々が難澁するので・命が、父神はオロチ族に斯様なことをしない様直接談判をして下さい(オロチ退治)。私は烏髪山から乾の方角に当る地にとどまり、住民と共に樹木の苗を育て荒れ山に植樹して治山治水を行いますと申された。その地が御当杜御鎭座地角村である。命は住民に「杉及び楠」は浮舟に、「桧木」は御殿を作れ、「マキ」の木は火をたいて物を焼くのに用いよと教えられた。その後、命は日本国中に植樹造林をおすすめになられた。このため朝廷から国土経営の神として遇せられ、全国の人々から林業の守護神として崇められている。
御社宝
木造 随神立像 二躯
木造 獅子頭 一頭
共に県文化財
御祭日
祈年祭 4月8日
例大祭 11月8日
新嘗祭 12月8日
-『社頭掲示板』より-
同じ横田町大呂2058の鬼神(おにかみ) 神社が当初の伊我多気神社で上宮といわれている。
上宮伊賀多気神社
境内・社叢
一の鳥居
二の鳥居 社号標
手水舎
社頭掲示板
狛犬
随神門
拝殿 拝殿扁額
本殿
境内社
遥拝所だろうか 社日神
ご神木
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「延喜式神社の調査」さん
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