式内 佐伎治神社
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概 要
社 号 式内 佐伎治神社
式内社 若狭国大飯郡 佐伎治神社
読み: 古 サキチ、現 さきち
所在地 福井県大飯郡高浜町宮崎字宮内59-4
旧地名 若狭国大飯郡
御神紋 橘
御祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと)、稻田姫命(いなだひめ)、大己貴命(おおなむちのみこと)
例祭日 10月12日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
北陸道 式内社352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
大飯郡(オホヒ・おおい) 7座(貞・並小)
近代社格制度 旧県社
創建 年代不詳 、景行天皇の時磐鹿六雁命以前の草創
本殿様式 流造 檜皮葺
境内摂社(祭神)
玉垣稲荷神社、日吉神社、御霊神社、廣峯神社、天満神社、山神神社、赤松神社、大山神社
一口メモ
高浜町中心部、国道27号の宮崎交差点南突き当りの妙見山北の麓にあり、まっすぐな広い参道は車で分かりやすい。
歴史・由緒等
創建は1800年以上も昔とされ、若狭地方に伝わる最大の祭り、神社に伝わる式年大祭(七年祭り)が有名。
縁起
佐伎治神社の創建は不詳ですが磐鹿六雁命(景行天皇皇子)が若狭国を治めた時にはすでに鎮座していたと伝わる古社で、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社大飯郡小7座のうちの1社です。当初は薗部村に鎮座し、中世以降は神仏習合し別当として龍蔵院が祭祀を取り仕切ってきました。
天正年間(1573~92)、若狭守護職武田家の家臣逸見昌経が現在地に遷座、その後に領主となった木下利房も厚く庇護し社殿の造営を行っています。歴代小浜藩主酒井家からも崇敬庇護され正保3年(1646)の酒井忠勝、安永6年(1777)の酒井忠治が社殿を造営し棟札が残されています。
江戸時代には碎導宮や碎導明神などと呼ばれていました天保4年(1833)に旧社号である佐伎治社に改め、明治時代初頭に発令された神仏分離令により神社として独立し明治8年に県社に列しました。社宝である和鐘は平安時代末期から鎌倉時代初期に鋳造されたものと推定され、延元元年(1336)に浜辺に打ち上げられたものを住民が発見し当社に奉納したもので福井県指定文化財に指定されています。
-福井県:歴史・観光・見所-
境内・社叢
鳥居 手水舎
二の鳥居・拝殿
サッシの拝殿ははじめて見る。新しい普請は今でも信仰が厚いということだろう。
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拝殿扁額 本殿覆屋
日吉神社 御霊神社
廣峯神社
カシの木 高浜町指定天然記念物
32.45m でかいw
地名・地誌
高浜町は福井県の最西端に位置し、青葉山(別名・若狭富士)を境にして京都府舞鶴市などと接している。また、北陸地方の最西端の市町村でもある。
日本海(若狭湾)に面し、大島半島と音海半島の間には、日本の夕陽百選にも選定されている若狭和田海水浴場および快水浴場百選にも選定されている白浜海水浴場などがあり、夏期には多くの海水浴客が訪れる。また音海半島と大浦半島では若狭湾のリアス式海岸が楽しめる。
山岳地帯は京都府とは丹波高地で連なっている。
高浜
古くから丹後国の国境に接する軍事的要衝で、中世は若狭守護職武田氏の重臣である逸見氏が支配しました。戦国時代に入ると逸見氏は半独立し丹後の松永氏と組み度々主家である武田氏に反旗を翻しています。永禄8年(1565)には高浜城を築き武田氏と対立、さらに元亀元年(1570)には織田信長と誼を通じ越前侵攻に随行しています。その後、逸見氏は若狭最大の勢力を持ちますが天正9年(1581)に当主逸見昌経が死去すると急速に衰退し旧領は溝口秀勝と武田元明が引き継ぎさらに山内一豊、木下利房が高浜城主となり周辺を支配します。木下利房は豊臣秀吉の甥に当る人物で2万石を有していましたが、関ヶ原の戦いで西軍に組した為改易となり、替わって京極高次が小浜藩主となり高浜城には家臣である佐々義勝を配します。寛永11年(1634)に酒井忠勝が入封すると高浜城は廃城となり、跡地には大飯郡の御蔵が置かれ、和田には代官所が設置されました。
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地 図
交通アクセス・周辺情報
JR若狭高浜、高浜町役場
参 考
「福井県:歴史・観光・見所」さん、『延喜式の調査』さん
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