式内 倭文神社(鳥取県倉吉市)
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概 要
社号 式内社 伯耆国久米郡 倭文神社
読み: 古 シトリ、現 しどり
江戸時代は「志津神社」「志津大明神」「三宮明神」と称していた
所在地 鳥取県倉吉市志津209
旧地名 伯耆国久米郡
御祭神 経津主神(フツヌシ) 武葉槌神(タケミカツチ) 下照姫命(シモテルヒメ)
合祀 伊弉諾命 伊弉冉命 誉田別命
天羽槌雄命 『神名帳考證』『神祇志料』
天羽雷命 『神祇宝典』
健羽雷神 『特撰神名牒』
例祭日 4月19日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
伯耆国(ハフキ・ほうき):6座(並小)
久米郡:2座並小
中世社格制度 伯耆国三ノ宮
近代社格制度 旧県社
創建
本殿様式 春日造
境内摂社(祭神)
一口メモ
倉吉市の最後で倭文神社だけ残したくはない。国庁裏神社から南へ県道312号へ34号を右折し、288号へ、福本交差点からさらに細い県道50号を進と右手に大きな鳥居が見えた。倭文神社とは書いてないようだが参道の入り口に間違いはなさそうだ。斜めに登り細い道を。日没近かったが、なんというか行き方がわからず、丘陵の細長い尾根伝いに細い農道が何本も並行して走り、すっかり日が暮れてしまい迷路に迷い込んでしまったような気分だ。神社のすぐそばまで来ているのに細い道が絡まるようだ。諦めたくない。切り返しながら坂を登るとようやく鳥居が見えた。
歴史・由緒等
創立年代は不詳であるが、当社は延喜式神名帳(西暦927年平安時代)記載の神社(式内社)であって、古くは志津大明神又は三ノ宮志津大明神とも称した。
神階は高く、往古より武門武将の崇敬篤く、庶民の信仰また盛ん、中世には国主山名氏、吉川氏、南條氏などに崇敬され、社殿の建立、社領の寄進を受けたが、慶長年間、中村伯耆守により社領を没収された。江戸時代に入っては藩主の尊信篤く社殿の建立・修復、社領の寄進が行われ、池田家の祈願所として隆昌を極めた。
鎮座地の志津は社号の倭文と同じである。
倭文とはシヅオリのつまった形で、シヅは「日本古来の文様」、オリは「織り」であると言われる。したがって、倭文は日本古来の織物を意味し、読みはシヅオリがシヅリ・シドリに、さらにシヅへと転じたものであろう。(古くは清音)
往時この一帯は日本古来の織物、即ち倭織が盛んであったという。
このことからして当社は、この地に移り住んだシヅオリを業とする技能集団、「倭文部」の一族が氏神として機織の祖神「武葉槌神」をお祀りしたのに起因することは明らかである。やがてその里がシヅ(志津)となったものと考えられる。
又、経津主神(一説には武葉槌神とも)が中津国平定の詔勅により出雲へ進発の時、御陣営を堅められたのがこの地で、当社はその神跡であると伝えている。当社より北200m余の地に「神津井」と称する井がある。往昔、諸神の軍営中飲料に当てられたとされる井で、今も祭事には神水として神前に供している。
往昔より祭礼の際、室町時代の軍神祭の様式に倣った神幸式が行われたが、幾多の変遷を経て江戸時代の末期再興、大名行列の様式になり今日に至っている。
明治4年郷社に列し、大正2年近在の四社を合併、昭和17年県社に昇格、昭和30年福富神社が分離、御祭神は、’六柱となる。
「社頭掲示板」
境内・社叢
鳥居と神門
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