式内 双栗神社
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概 要
社 号 双栗神社
読み さぐり “ナミクリ”と読む資料風土記(特選神名牒・1876)もある
江戸時代は「
延喜式神名帳 式内社 山城国久世郡 雙栗神社三座 鍬靫
所在地 京都府久世郡久御山町佐山55
御祭神
例祭日 10月8日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
久世郡 24座(大11座 小13座)
式内社
近代社格制度 旧郷社
創建 年代不詳
本殿様式 三間社流造檜皮葺
境内摂末社(祭神)
なし
文化財 本殿旧脇障子欄間(重要文化財)
一口メモ
近鉄大久保駅の西へ1km、国道24号線から西へ府道15号線に入り約450m。東鳥居から境内へ車で入ったがこちらが拝殿本殿に近い。西の旧道からが表参道で境内まで長い参道が延びている。「双栗」は“さぐり”と読むが、聞かないと読めなかった。参拝時は拝殿内部の修復工事中だった。
歴史・由緒等
社伝によれば、当社は羽栗郷(ハクリ・佐山村)・殖栗郷(エクリ・佐古村)・拝志郷(ハヤシ・林村)の鎮守社であった。やがて佐古村に若宮八幡宮が創建されると、雙栗神社は佐山・林の二ヶ村の氏神となる。
社名の由来は諸説があって定かでないが、羽栗と殖栗の間に鎮座していたから双栗と称したといわれ、また、この地を支配した古代豪族の葉栗氏の祖神を祀った氏神社で、葉栗が雙栗に転訛したともいわれている。
今の社名はサクリと称するが、風土記ではナミクリと称している。サクリは“双・雙”を“ふたつ”と読解したもので、ナミクリは風土記が“里を並栗と名づける”というように“並ぶ”と解したものと思われ、“ふたつのもの(郷)が並ぶ”という意味では同じともとれる。
「双栗神社三座」とあることから、本來は天照皇大神、須佐之男命、事代主命の三神が祭神で、誉田別尊似下は椏本八幡宮と称せられるようになったのちに祀られるようになつたものと思われる。
神社 号復古願(1882)
雙栗神社--天照大御神・須佐之男命・事代主命
椏本八幡宮--息長帯比売命・品陀和気命・姫大神
末社--大雀命(若宮八幡宮)・活目入彦五十狹茅命・和気清麻呂(珠城神社)
との資料があり、これらからみて、雙栗神社の祭神はアマテラス・スサノヲ・コトシロヌシであり、他は椏本八幡宮および末社の祭神となる。
椏本八幡宮縁起(1676・江戸前期)によれば、
「崇徳天皇・天治2年(1125・平安後期)春2月 、当地にあった大きな椏の木の梢に、石清水八幡宮が鎮座する鳩峰(男山)から、金色の光が射して輝いた。郷民は畏れおののき、日が暮れると一歩も外へ出る者はなかった。
七日後、当地の住人・木工頭橘良基なる神職に、『八幡宮を此処に勧請して国家安全を祈らば、我能く庶民を守るべし』との夢告があったので、朝廷に願い出、椏の木のもとに神祠を造立した」
のが始まりとあり、
当社縁起には
「その後、応保2年(1162・平安末期)に勅使が立てられ、勲一等を受け椏本一品八幡宮と号し、神田を賜ったという。
これは、石清水八幡宮の神威が全国的に広がり、佐山郷一円の地が八幡宮の荘園となったころ、社名が変えられ八幡神崇拝に繋がっていったのであろう。
したがって当社も、神仏習合の顕著な八幡宮の影響をうけて、佐山・林に神宮寺・五カ寺(西方寺・三福寺・淨福寺・薬蓮寺・安楽寺)が建立され、社殿には大般若経六百巻が治められていた」
とある。
境内・社叢
西の大鳥居 東鳥居
社号標 手水
拝殿(修復工事中)
拝殿内部 瑞垣・拝所・本殿
狛犬
本殿
地名・地誌
地図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「久御山町」、「戸原のトップページ」さん、「延喜式の調査」さん他
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