式内 売布神社(京丹後市網野町木津)

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 式内 売布神社
式内社 丹後国竹野郡 賣布神社
読み:古 ヒメフ、現 めふ
江戸時代は「祗園社」「八幡宮」と称していた
所在地 京都府京丹後市網野町木津女布谷217
旧地名 丹後国竹野郡
御祭神 豊宇賀能命(とようかのひめ のみこと)、素盞嗚命(すさのお のみこと)
例祭日 10月10日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
竹野郡(タカノ):14座(大1座・小13座)

近代社格制度 旧村社

創建     景行天皇元年3月12日田道間守が田神山に創祀
本殿様式   流造

境内摂社(祭神)

八幡神社 誉田別命、久々能之命、五十猛命
稻荷神社

文化財

本殿 京都府指定文化財

一口メモ

国道178号線を東へ、北近畿タンゴ鉄道木津温泉駅前を通り、木津中心街の東端金平楼というお店の角を南へ入る。

女布権現山を間に南西側の京丹後市久美浜町女布にある同名の式内社 売布神社から北北東約3kmに鎮座する。

女布にある式内社 売布神社が元々女布権現山に鎮座していたのを遷座したとされるが、女布権現山の反対側にあるこちらの式内社 売布神社も関係あるかも知れない距離である。

歴史・由緒等

『網野町誌』

賣布(めふ)神社(式内) 木津字下和田
祭神 豊宇賀能命
合神 牛頭天王(素戔嗚命)(祇園社)
由緒-本社記録-
本社は垂仁天皇の九十年春二月朔日、田道間守勅を奉じて當世国に渡航し、不老不死の香菓たる橘を得、景行天皇元年三月十二日萬里踏浪無恙帰国せし報賽の為田神山(一名屋船山)に神籬を設けて礼典を挙げられしより、此の地に奉祀せしを以て創始とす。…後略…
後一度び小字賣布谷に移られ、文安四年(一四四七)八月現今の境内に社殿を建立して移祀せり。
尚ほ素戔鳴命は正安二年(一三〇〇)庄内に疫病流行せしより之が疫鎮の神として、京都祇園社より勧請し相殿と奉祀せるに始まる。(『木津村誌』)
明治六年(一八七三)二月村社に列せられ、同四十三年四月十二日神饌幣帛料を供進し得べき社に指定せらる。(『竹野郡誌』式内社調査報告第十八巻)
(補) 峰山町吉原の「稲代神社」合神の祇園社は木津の賣布神社から勧請した。(「中郡誌稿」)
○境内神社
稲荷神社 祭神 宇賀魂命 ほか五神
八幡神社 祭神 誉田別命 ほか、元細谷社・大森社・大宮売社その他当社へ合祀。

社伝によると、
垂仁天皇九十年春二月朔日、常世国へ渡航した田道間守が景行天皇元年三月十二日に帰国し、田神山にて神籬を設けて神典をあげたことを創祀とする。
その後、小字売布谷に移され、文安四年(1447)八月・現在地に遷座したという。

正安二年(1300)、村内に疫病が流行したため、京都祇園社より素盞鳴尊を勧請。よって、通称を祇園さんというらしい。

主祭神は豊宇賀能咩命だが、社号から大賣布命とする説もある。

明治六年二月村社に列した。
『新撰姓氏録』には、オオメフノイコト(大賣布命)は、物部氏の遠祖。饒速日命の七世孫としている。

境内・社叢

  
社叢                   社号標・鳥居


社頭案内板

  
拝殿                   本殿

  
左境内社

地名・地誌

 「主祭神は豊宇賀能咩命だが、社号から大賣布命とする説もある。」

わが豊岡市日高町{祢布|にょう}は但馬国府が置かれたところで、その北に(正確には現在の所在地は遷座されたもので、古社地は但馬国府跡から近い国分寺荒神神社)にも、同名の式内社売布神社があり、祭神は多遅摩物部氏の祖、伊香色男命の子、大売布命である。女布も祢布も読みは「にょう」で同じで、前々から当地と久美浜町女布の式内売布神社は興味があった場所ある。(詳細は『但馬の神社と歴史』気多郡に書いた)

しかし、まったく独断だけど、売布の売(め)とは、すなわち豊宇賀能命=豊受大神のことであり、比売の鎮座される布で女布とも思うのである。

朱の原料

天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。
また丹後・但馬には水銀鉱床群があったのかどうか、直線で丹生(にゅう)という地名が多い。丹生とは辰砂・水銀のこと。辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった。

施朱の風習は古墳時代前半には終わり、更に金製品が渡来し、国内でも金製品や鍍金製品が作られ始めた。金と水銀に溶かし込んだアマルガムを銅などに塗り、これに熱をかけて水銀を蒸発させると、表面に金がしっかりと食い込む。この時代になると水銀が必要になってくる。6世紀の頃である。

辰砂の採取を司る丹生氏は、水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。辰砂と水銀の利用の主役は秦氏に移り、丹生氏は丹生都比売を祭祀する神官となった。秦氏もまた、丹生の地名、丹生神社の鎮座地に多く分布している。

7世紀後半の記紀が編纂される頃には、丹生氏の影は薄くなっており、記記には丹生都比売神は登場していません。 神功皇后のエピソードの中にかろうじて天野祝の名が出てくる程度の扱いとなっている。神社や鳥居が朱色であるのも、朱
はそこにルーツがある。

日本海の水銀地名は遠敷(おにゅう)・丹生(にゅう)と祢布の相関関係?!

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

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