式内 大宇賀神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社 号 式内 大宇賀神社

式内社 丹後国竹野郡 大宇賀神社
読 み:古 オホウカ、現 おおうか
所在地 京都府京丹後市網野町郷字丹生土2112
旧地名 丹後国竹野郡
御祭神 大宇賀能賣命(おおうかのひめ のみこと)
例祭日 10月10日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
竹野郡(タカノ):14座(大1座・小13座)
式内社

近代社格制度 旧村社

創建     年代不詳
本殿様式   流造

境内摂社(祭神)

武神社

一口メモ

国道178号線北近畿タンゴ鉄道網野駅を過ぎて府道17号線を福田川沿いに南下する。途中「郷村断層」があったので立ち寄った。郷小学校から行き過ぎて、公庄という集落の神社かと思って付近のお婆さんに尋ねたら違う郡立神社だった。郷小学校まで戻り府道20号線を西へ入っても郷で、谷が深く郷村は名の通り大きな郷村だったのがわかる。

集落奥で細い参道に入ると、20号線と並行して一本道が一直線に延びている。巨木がそびえ荘厳な社叢が広がる。

歴史・由緒等

『網野町誌』

大宇賀神社(式内)  郷小字丹生土(にうど)(入道)鎮座
祭神 大宇賀能売命  〔豊受大神〕
由緒  『竹野郡誌』掲載の「神社明細帳」によれば、「創立年月日不詳、寛保三癸亥(一七四三)七月吉日奉再造、明治六年二月村社に列せらる」とある。なお『丹後旧事記』には「丹波道主命の勧請なり」とみえる。その後、昭和二年の丹後震災により社殿が倒壊し新築された。倒壊前の本殿に棟札があったが今は不明。(式内社調査報告第十八巻)
〈伝承〉

大字賀神は元奥山(小字名御伊勢山あり)に居られしが、ある時天王(今の祇園天王)と住み場を替へんと考へられ谷より降りて来られ(今天王山分岐点道を隔てし南側に自然巌が露出其の上に株古きタモの老木一本あり、之神休岩と伝ふ)この地にて一休み両神談合、何れに住せんやと計り給ひけるに、天王神は此の山の土に住むといわれ大字賀神は此の向の山に往くとて互に宮を定め給ひけるなり。

注:右社(大宇賀神社)御神体「木像」一基、昭和初年中郡三重村の人永浜宇平君拝して曰く、作鎌倉中期以前ならんと。なお境内地内を旧新二条の導水路横断す。大正15年冬新水路改築に際し社の西南(宮ノ谷)掘さく中弥生式土器窯跡と思へる口径四尺くらゐ壼型焼土層現はれ、付近に「かねくそ(スラグ)」を混ずる土器破片堆積せるをみる。神社造営以前の跡なるべし。
上の伝承は白翁後藤宇右衛門記録の「郷村探古」による。
-「京丹後市」-

境内・社叢

  
社号標                 鳥居

  
案内板                 境内と立派なご神木

  
拝殿                  本殿


境内社

地名・地誌

地 図

京都府京丹後市網野町郷2112

交通アクセス・周辺情報

  

郷村断層

昭和2(1927)年3月7日に発生した北丹後地震(M=7.3)で出現した2本の地震断層のうちの一つ(他は山田断層)。網野町浅茂川西方から下岡、高橋、郷、生野内を経て峰山町、大宮町口大野へ至る全長18kmの地震断層が出現した。北北西─南南東走向を持ち、全体として左雁行配列をなす10本程度の断層群からなる。断層の西側が最大で約100cm隆起し、左ずれは最大で270cmに達した。左ずれの最大変位を示すのは網野町高橋付近で、ここから南北両側へ離れるにつれて変位量が小さくなっている。活動再来周期は、垂直変位速度と地震変位量から8千年程度と推定されている。1985年、地質調査所により、網野町立郷小学校北方でトレンチ調査が行われ、断層破砕帯を伴う明瞭な断層面が現れた。郷村断層に沿って発達する断層変位地形は、西側上がりの比高約50mの低断層崖、及び約100mの谷や尾根の左ずれオフセットで、累積変位が明瞭である。郷~生野内間では花崗岩よりなる丘陵性山地の尾根や谷に系統的な左ずれが見られ、高橋付近など数カ所で段丘面を変位させている。明治以後、日本の地震断層は約20例ほどしかないこと、昭和2(1927)年の地震時に山田断層とともに共役系地震断層が生じたこと、初めて科学的な地震及び断層調査が行われたこと、「活断層」という用語が日本で最初に用いられた点などで重要である。

-京都府-

ウカノメ(宇賀能売神)は、ウカノミタマ(倉稲魂尊)のことなのだろうか。
ウカノミタマは、『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。京都・伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。
中でも、トヨウケビメとは早くから同一視され、平安時代の『延喜式』(大殿祭祝詞)ではトヨウケヒメについて、「これ稲の霊(みたま)なり。世にウカノミタマという。」と説明している。

伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国(今の丹後国)の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。即ち、元々は丹波の神ということになる。

『網野町誌』では、祭神 大宇賀能売命〔豊受大神〕としている。『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。丹波郡比治里の比治真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人の羽衣を老夫婦が隠してしまったので天に帰れなくなった。そのためその老夫婦の家に住んでいたが、十数年後に家を追い出されてしまい、あちこち漂泊した末に竹野郡船木郷奈具の村に至ってそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。

豊宇賀能売神は豊受大神の別名だ。

参 考


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