式内 大輿比神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社号 式内社 養父郡養耆郷 大輿比神社
読み:古 オホヨヒ 現 おおよい
江戸時代は「須田の庄総一の宮」と称していた
所在地 兵庫県養父市三宅392
旧地名 但馬国養父郡養耆(八木)郷
御祭神 葺不合尊(ウガヤフキアエズ)、彦火々出見尊(ホホデミ)、玉依姫命(タマヨリビメ )、木花咲耶姫命(コノハナサクヤビメ)(平成祭礼データ)

創立時点では大屋彦命(兵庫県神社誌)としているが、元々は大与比命である 『国司文書・但馬故事記』
例祭日 10月第1土曜日 秋季例大祭

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)
式内社

近代社格制度 旧村社
創建     推古天皇15年10月
本殿様式   流造 柿葺

境内摂社(祭神)

秋葉神社・清所神社・若宮神社・三宝荒神社・厳島神社・稲荷神社

一口メモ

旧道は狭いが通行は少ないものの、車を留める場所もないので、スナップをとってすぐに帰る。またゆっくり参拝したい。

午後三時の暑い時間帯で旧道は狭く付近に駐車するスペースもないので、足早に写真を撮った。神社の前は広場になっていて子どもたちがカラーボール野球をして遊んでいた。

歴史・由緒等

 祭神大屋彦命と伝へ天日槍命と伝へて所伝區々なれども現在にありては葺不合尊以下を祀れり。
創立は大屋彦命となす所伝は推古天皇15年(607)冬10月三宅首が其祖神を祀りしものと云ふ。延喜式の制小社に列し明治維新前須田の庄総一の宮と称したり。

「兵庫県神社庁」

人皇33年推古天皇15年(607)冬10月 多遅麻国夜父郡養耆邑に屯倉を設け、米粟を貯え、貧民救恤キュウジュツ*1の用に供す。

大彦命の男、波多武彦命の末裔、大与比命を以て、これをツカサドらしむ。その後裔を三宅氏と云う。三宅オビトはその祖大与比命を三宅に祀り、大与比神社と申しまつる。

『国司文書・但馬故事記』

人皇30代敏達天皇5年(576)夏6月に、紀の国名草郡の人、高野直夫幡彦を以て、夜父郡司とする。この御代仏を信じ、国の祭を軽んず。これにおいてか、諸国に悪疫流行し、穀実らず、人多く死に、民これに苦しんだ。天皇は神祇を崇敬するよう勅した。郡司高野直夫幡彦は、この災害を払わんと欲し、14年夏5月、石原山に天御中主神・高皇産霊神・神産霊神・五十猛神(亦の名大屋津彦命)・大屋津姫命・抓津姫ツマツヒメ神、および己が祖、大名草彦命を祀る(式内 名草神社:養父市石原)

*1 救恤 貧乏人・被災者など困っている人を救い、恵むこと。出石郡(今の豊岡市)にも三宅がある。(式内 中嶋神社:豊岡市三宅1)

境内・社叢

  
社号標

  
神門                     神門扁額

  
石灯籠(御神燈)               拝殿・本殿

   
狛犬

  
拝殿                     本殿覆屋

  
本殿左手境内社 秋葉神社           清所神社(木花咲耶姫命)

<  
本殿右手境内社                若宮神社・三宝荒神社

地名・地誌

三宅

養父市三宅は養父市合併前は養父郡関宮町。古くは養父郡養耆(やぎ)郷、のち八木郷

「太田文」によれば、

太田文曰悲田院領八木庄 地頭八木又三郎入道覚田、御家人
村数十一 今分かれて両庄(須田庄・羽山庄)とす。

高柳 市場 今瀧 三宅 大谷 萬久里 右六村 須田庄
尾崎 関宮 吉井 中瀬 出合 右五村 羽山庄

貝原氏和字事始曰く推古天皇十五年(607)、国毎に屯倉を置く。日本紀はこれが屯倉を諸州に置き賜りし始めなり。屯倉とは、天子の御米を収め置く倉である。

続日本紀に今の国に三宅という村があるのはその跡である。国々に米倉を置いて貧民の餓死を救い給うためなるは、大変有り難き設置といえる。

中瀬金山

天正元年、八木但馬守豊信領地の時、中瀬大日寺の傍らに沙金(砂金)あり、因州(因幡国)の者が来て

八木古城

(要約)
市場の後山にあり、上古、平氏の人がここに居たと公文が伝える。鎌倉時代、表米の遠孫、日下部氏、朝倉高清入道が平氏を滅ぼして、その次男をここに置く。それより子孫八木氏と名乗る。武家系図に朝倉と載せてあるのは八木家である。山名氏がこの国(但馬)を領してからは、その家臣となった。国老四人(山名四天王)の一人。そのとき城をこの山に築き、応仁の乱後、山名家衰微し、八木氏は一諸侯のごとき領地因幡辺りまで及び、四万石と伝える。
天正年代、太閤来征(但馬征伐)の時、城主八木但馬守豊信防ぎ得ず、因幡に出奔する。太閤より別所某を置く。別所は赤松入道円心の末族である。天正十年、別所氏が丹後由良へ移ってからは城主が(頻繁に)変わった。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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