式内 小幡神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社 号 式内社 丹波国桑田郡 小幡神社
読み: 古 ヲハタ、現 おばた
所在地 京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内1
旧地名 丹波国桑田郡曽我部郷
御祭神 開化天皇 配 彦坐王、小俣王
例祭日 10月22日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹波国(タンバ):71座(大5座・小66座)
桑田郡(クワタ):19座(大2座・小17座)

近代社格制度   旧村社

創建       崇神天皇10年四道將軍道主命が開化天皇を祀る
本殿様式     一間社流造
境内摂社(祭神)

文化財

小幡神社本殿 府登録文化財
小幡神社文化財環境保全地区 府文化財環境保全地区

一口メモ

国道9号線加塚交差点を国道372号線へ左折し、
1.1 kmで、丹波縦貫自動車道の重利(交差点)を右折してそのまま、国道372号線を進む。
600 mで左折してそのまま 国道372号線 を進む。
850 mで亀岡運動公園前(交差点) を左折して 府道407号線 に入る。
550 mで橋の手前を右折し89 m。

歴史・由緒等

当社は、崇神天皇の命により派遣された 四道将軍のひとり、丹波地域を治めた丹波道主命が、皇祖開化天皇を主神として祀ったことに始まるといわれ、開化天皇の御子 の彦坐王とその御子小俣王の三代を奉斎しています。
また社伝等によると、和銅元年(七〇八)に、丹波国司大神朝臣狛麻呂が霊域に社殿を建立され、延長五年(九二七)に編纂された『延喜式』「神名帳」にも記載された古社です。

社蔵の棟札によると文和元年(一四四二)には管領細川政元の本殿造営とその後明応元年(一四九二)を始めとする修造、屋根葺替えが行われています。現在の社殿は、天和三年(一六八三)に造立された一間社流造、檜皮葺の建物です。亀岡市内で妻に二重虹梁大瓶束を用いた早い事例であり、京都府の登録文化財となっています。また、社宝として全国に三幅といわれる円山応挙の絵馬の一つが保存されています。

-「境内案内板」-

境内・社叢

  
鳥居                       社号標


社頭掲示板

  
手水舎                      境内

   
拝殿


本殿

  

  
本殿左境内社

  
本殿右境内社                     社日塔

地名・地誌

亀岡市の地名は、合併前の町村が引き継がれており、最初は長いと感じたが、神社を調べるには、旧村や字名が残っていることはありがたい。

曽我部町穴太(あなお)
曽我部町は、1955年(昭和30年)亀岡市発足以前は、南桑田郡曽我部村。曽我部はその蘇我氏にゆかりがあるのだろう。小幡もその秦氏の「はた」と関係があると思えるのだが。。。

京都西部や亀岡は、渡来系の秦氏(はたし)の本拠地で、京都市嵐山の松尾大社をはじめ、亀岡も秦氏系神社が点在する。
4世紀から7世紀にかけて、亀岡盆地には数多くの古墳がつくられています。現在、市域で見つかっている古墳は約700、最大の古墳は千歳車塚古墳。6世紀前半に造られた全長80mの前方後円墳です。
『日本書紀』には、安閑2年(535)、大和政権が各地に直轄地として屯倉(みやけ)を設置したと記され、そのなかに丹波の蘇斯岐屯倉(そしきのみやけ)という記述がみられます。
市内に残る三宅(みやけ)神社周辺は、古くは三宅村と呼ばれ、屯倉の設置を進めた蘇我氏は、亀岡にゆかりのある秦氏を従えていたともいわれています。これらのことから、この地が蘇斯岐屯倉であったことが想像されます。
1955年(昭和30年)
1月1日、南桑田郡のうち(篠村・樫田村を除く)1町15村(亀岡町、東別院村、西別院村、曽我部村、吉川村、薭田野村、本梅村、畑野村、宮前村、大井村、千代川村、馬路村、旭村、千歳村、河原林村、保津村)が合併、亀岡市が誕生。

地 図

交通アクセス・周辺情報

穴太寺

参 考

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