式内 屋岡神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社号 式内社 但馬国養父郡 屋岡神社
読み: ヤオカ
所在地 兵庫県養父市八鹿町八鹿字篭ノ口1513
旧地名 但馬国養父郡遠佐郷
御祭神 天照皇大神(アマテラス) 応神天皇(ホムダワケ)
『国司文書 但馬神社系譜伝』武内宿祢命(たけうちすくね)
例祭日 7月第三土曜から日曜

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)

近代社格制度 旧村社
創建     年代不詳(『国司文書 但馬故事記』 人皇四十代天武天皇の十二年冬十月)
本殿様式   流造 柿葺

境内摂社(祭神)

稲荷社・八柱神社・絹巻神社・抱見天王社

一口メモ

旧国道9号線天子交差点を右折、すぐ細い道がある。養父市役所の手前だが車では一方通行で逆方向となるので、市役所前の八木川沿いを行き市役所裏手の八鹿保育園前から入る。八鹿病院から来たことがあるが、その時は分からなかったので断念した。普通車なら市役所駐車場に止めてすぐ裏手なので歩いた方がいい。

歴史・由緒等

由 緒
創立年月不詳

伝え云う 此の地神功皇后三韓凱陣の際、上陸せられて御船を覆されたる跡と称し今に舶岡といい当社を創立すと延喜式の制小社に列し元亀2年赤松氏乱入の際及び天正8年(1580)羽柴氏乱入の時共に兵火に罹り慶長11年(1606)火災に遭へり。

明治6年(1873)10月村社に列し同40年(1907)拝殿を新築せり

「兵庫県神社庁」

祭神、天照皇太神、応神天皇
由緒、上古この辺一帯は「屋岡の里」と呼ばれていた。人皇第9代開化天皇の王子日子座王の曾孫船穂足尼命が第13代成務天皇の御代に但馬の国造として来り、現在の天子の地に館を構えた。船穂足尼命の孫の息長帯比賣命は第14代仲哀天皇の皇后となり、英武の氣性をもって国威を海外に発揚し神功皇后を崇められた。女丈夫であり、応神天皇(誉田別命)の母君でもある。天子の地名はこの偉大な神功皇后の御誕生地に因み名付けられたと言はれています。その後人々は神霊への敬慕と加護の願いをこめて域内の西方に宮居を造営し、天照皇太神と応神天皇の神霊を合祀し、是を口の宮と言いその内苑は今の神域を中心に広大な境内に石垣をめぐらした神聖な神域で外苑を隔て馬場があり、今も馬場の地名が残ってゐるが、再三の洪水で宮居も流され今は原形の面影もなし。又西方の壱部の金ヶ平には仲哀天皇と神功皇后の神霊を合祀した奥の宮を建立し、兩宮を通稱して式内屋岡神社と称した。然し奥の宮は中世に御神体は移転、宮居は廃棄され今日に至る。
摂社 八柱神社、稲荷神社、絹巻神社、抱見天王

「社頭掲示板」

『国司文書 但馬神社系譜伝』
遠佐郷(オサ) 屋岡神社
養父郡屋岡村鎮座
祭神 武内宿祢命

人皇四十代天武天皇の十二年冬十月、養父郡司・保奈麻臣これを祀る。
人皇八代孝元天皇は、内色許男(ウチシコオ)命の女(娘)伊賀迦色許売(イカガソコメ)命を娶り、彦太忍信(ヒコフツオシノマコト)命を生む。彦太忍信命は、木国造(和歌山県)の祖・宇豆毘古(ウズヒコ)命の妹・山下影姫命を娶り、武内宿禰を生む。武内宿祢は木角宿祢を生む。
木角宿祢の裔・紀ノ臣は保奈麻臣の祖父なり。(参照→名草神社)

『国司文書 但馬故事記』(第三巻・養父郡故事記)

人皇四十代天武天皇の白凰十二年冬十月、紀臣の男・麻奈臣の子・保奈麻臣を以って、夜夫郡司と為す。
保奈麻臣は遠佐(オサ)郷を開き、その祖・武内宿祢を屋岡丘に祀り、屋岡神社と申しまつる(式内 屋岡神社:養父市八鹿町八鹿1513 )
また紀臣を大恵保に祀り、保奈麻神社と申しまつる。遠佐郷開拓の祖なり。

境内・社叢

  
鳥居                   拝殿

  
拝殿                   拝殿・本殿

  
左手境内社                右手境内社

地名・地誌

八鹿(ようか)
八鹿は、九鹿(くろく)もあるので鹿に関係あるのかと信じていたが、個人的に養父(郡)の丘で、ヤブオカがヤオカに訛ったのではないかと考えている。養父郡を拝領した表米王の子孫が日下部氏で、朝倉氏はその子孫と名乗っている。朝倉に城を構えて浅倉姓を名乗った。三男豊信は八木城に移り八木姓を名乗る。本家浅倉家はのちに越前一乗谷に移り、越前の大名となった。織田信長に浅倉・浅井連合で立ち向かい朝倉氏は滅亡した。

養父郡遠佐郷(オサ)
遠佐郷は曰佐(ヲサ)氏在住の地なり。故に曰佐神社あり。曰佐氏の祖・紀臣命を祀る。
和奈美村(和奈美神社から今の下網場だろう)・朝倉・保奈麻村・国棺(クノギ・今の国木)村(省略)
(筆者註:国棺とは箕谷などの古墳であろう養父郡司保奈麻臣が濃厚)

八鹿(ようか)

『国司文書 但馬故事記』(第三巻・養父郡故事記)

天火明命は、また天熊人命(あめのくまびとのみこと)を夜夫(ヤブ)に使わし、桑を栽培する地をあわせて作らせる。天熊人命は夜夫の谿間(タニマ)に着き、桑を植え、蚕を屋岡(八鹿)に飼う。
故にこの地を、谿間の屋岡原(やおかはら)と云う。
谿間(たじま)の名はこれに始まる。(註 谿間は但馬の古名)

天火明命は、この時、浅間の西奇霊宮に坐(いま)し、天磐船命の子、船山命とともに祀る。(式内 浅間神社:養父市八鹿町浅間)

(中略)

天火明命は、稲年饒穂命(いきしにぎほのみこと)に命じて、小田井県主となし、稲年饒穂命の子、武饒穂命に命じて美伊県主3とし、
佐久津彦命に命じて、佐々前県主とし、
佐久津彦命の子、佐伎津彦命に命じて、屋岡県主
4とし、
伊佐布魂命の子、伊佐御魂命に命じて、比地の県主*5と為す。

[註] *1 清明宮 小田井県神社
*2 霊異 人知でははかりしれない不思議なこと。また、そのさま。
*3 美伊県 美含(みぐみ)郡の古名(竹野・香住)
*4 屋岡県 八鹿町。屋岡がヤウカに転じ、八鹿の字を当てたものであろう。
*5 比地の県 ここでの比地は朝来郡
*6 遠屋郷 今の八鹿町九鹿あたり
*7 石禾(いさわ) 石禾郷。養父郡大蔵地区の古名
*8 伊佐布県 伊曽布・射添庄 いまの香美町村岡区射添地区

屋岡は○○の地なり。天熊人命の養蚕・栽桑の古地。故に八桑枝弥生の義より屋岡と名づく。のち保奈麻臣、養父郡司となり、府をこの地に置く。故に曰佐氏の遠祖・武内宿禰命・紀臣命を屋岡の丘に祀り、屋岡神社という。
(註:屋岡がヤウカに転訛し、八鹿の字を当てたものであろう)

地 図

兵庫県養父市八鹿町八鹿字篭ノ口1513

交通アクセス・周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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