式内 岡田鴨神社
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概 要
社 号 式内 岡田鴨神社
読み おかだかもじんじゃ
延喜式神名帳 式内社 山城国相楽郡 岡田鴨神社(大 月次/新甞)
所在地 京都府木津川市加茂町北44
御祭神 (右)岡田鴨神社 建角身命(たけつぬみのみこと)
(左)天満宮 菅原道真(すがわらのみちざね)
例祭日 4月3日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
相樂郡 6座(大4座 小2座)
近代社格制度 旧郷社
創建 伝:崇神天皇の頃
本殿様式 春日造桧皮葺
境内摂末社(祭神)
天満宮(祭神菅原道眞)・金刀比羅社(大物主命)・三十八社神(鹿島神御子三十八神) ・八幡宮
一口メモ
柳生の里に一泊後、夜明けから夜伎布山口神社、天乃石立神社から奈良県最東端の式内社である山添村の神波多神社まで周り、山越えで木津川笠置町へ出る今回の最長移動ルート。国道25号線に乗れば都袮の式内社へ近く、そのまま天理市から北上できるが、天理市から桜井市方面は、数多くの式内社が連なっており、9時半までには奈良市内へ行かねばならないので山城南部木津川をとった。晩秋は日中時間が短いので時間勝負。
歴史・由緒等
当社の由緒によれば、「(以下*1と同じ)…大和平定後は葛城の峰に留まり、ついで山城国岡田の賀茂に移られ、その際に賀茂建角身命を賀茂氏族の祖神として創祀されたのが本社である。崇神天皇の御代と伝える。その後、命は山城川を下り洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まられた」
とある。
「釈日本紀」(713)の『山城国風土記』の逸文によると、
建角身命は日向の高千穂の峰に天降られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が、すなわち御祭神の建角身命で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。(*1)
大和平定後、神は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田賀茂(現在の加茂町・江戸時代までは賀茂村と書く)に移られ、その後洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まるのである。賀茂氏族の発展を祈り岡田賀茂の地に洛北より賀茂明神を勧請し賀茂氏族の祖神、建角身命が祀られた。当社の御鎮座は、崇神天皇の御代と伝えられている。境内は、元明天皇の岡田離宮の旧跡と伝えられ、村人が離宮の旧跡を保存するためにこの地に天満宮を創祀したと伝えられる。和銅天平時代には、現在の木津川(古名-加茂川)は岡田山(流岡)の北側を流れていたが、その後木津川が南側を流れるように変化し、水害が頻繁になり、式内岡田鴨神社を旧社地より岡田離宮の跡である天満宮の境内に遷された。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
崇神天皇の御代、賀茂氏族の発展を祈り岡田賀茂の地に洛北より賀茂明神を勧請し賀茂氏族の祖神、建角身命が祀られたとある。
ちなみに洛北には鴨川をはさんで上賀茂神社と下鴨神社の二社があり両社とも名神大社であるが、上賀茂社の創祀は天武6年(678)といわれ、二十二社註式に「天武6年に、山背国に命じて賀茂神宮を営なませた」とあり、官による社殿造営とみられる。ただ、それ以前・遅くとも6世紀頃から、賀茂氏による祭祀はおこなわれていたと推測される)、下鴨社は天平(729–748)の末年から天平勝宝2年(750)までの間に上賀茂社から別れたという。
賀茂氏が大和から当地岡田賀茂に移り、洛北に住まわったルートは同じだが、その後、乙訓(桂川と賀茂川の合流点付近・松尾大社)を経て賀茂川を北上し、雄略朝から清寧朝の頃(5世紀後半頃)に洛北賀茂の地へ進出したという(日本の神々5-2000)
当社が賀茂氏が滞在していた際に建立したのは、上賀茂社から勧請したとすれば7世紀後半以降(下鴨社分離まではカモタケツヌミも祀られていた)、賀茂御祖神社(下鴨神社)ならからとすれば8世紀中葉以降となる。
賀茂氏が滞在したルートは洛北より先に当地に滞在していたことは間違いないが、神社が洛北の賀茂社より先にあったか、勧請したのかは、記述に食い違いが見られ定かではない。
しかし、「二十二社註式」によれば、大和国に都が置かれた天武天皇の御代に賀茂神宮(今の上賀茂神社)、当社と同じカモタケツヌミを祭神とする下鴨社(賀茂御祖神社)は天平(729–748)の末年から天平勝宝2年(750)までの間に上賀茂社から別れたので、上賀茂神社、下鴨神社ともに都が平城京の時代にはあったようだ。
境内・社叢
社頭・一の鳥居 鳥居扁額「岡田鴨神社」
御神門 拝殿
狛犬 狛犬・天満宮ならではの狛牛
本殿(左)岡田鴨神社 (右)天満宮 境内社 三十八社神(鹿島神御子三十八神)
境内社 金刀比羅社(大物主命)
社殿は江戸時代に春日大社より移築された春日造り(春日移し)
地名・地誌
加茂町
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