式内 揖夜神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 式内 揖夜神社
式内社 出雲国意宇郡 揖夜神社
読 み: 古 イフヤ、現 いや
『出雲国風土記』在神祇官社「伊布夜社」
所在地 島根県松江市東出雲町揖屋字宮山2229
旧地名 出雲国意宇(おう)郡餘戸里
御祭神 伊弉冉命(いざなみ) 大己貴命(おおなむち) 少彦名命(すくなひこな) 事代主(ことしろ)命 配祀 武御名方命 経津主命
例祭日 10月19日

社格等

『延喜式神名帳
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国 187座(大2座・小185座)
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
意宇六社の一社
近代社格制度 旧県社
創建     年代不詳
本殿様式   大社造 大社造であるが、内部の造りは出雲大社とは逆の向きになっている。
境内摂末社(祭神)

本殿左 境内式内社  同社坐韓国伊太氐神社  素盞嗚命 五十猛命
『出雲国風土記』在神祇官社「伊布夜社」、および式内社「同社坐韓国伊太氐神社」に比定される。

本殿右 三穂津姫神社(三穂津姫)(風土記社)
『出雲国風土記』不在神祇官社「伊布夜社」に比定される。

境外末社市原神社

恵比須社 天満宮 恵比須社 稲荷社

一口メモ

国道9号線を県道191号線へ、松江市東出雲支所方向へ進み、信号を右折、300m。

歴史・由緒等

「言屋社」、『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社「伊布夜社」、『延喜式神名帳』の出雲国意宇郡の「揖屋神社」に比定される。。記紀神話に登場する黄泉比良坂の比定地の近くにある。また隣接する安来市の比婆山には関連神蹟として古事記に記された伊邪那美神のご神陵がある。
神社に所蔵された文書によれば南北朝時代には「揖屋大社」と称し、戦国時代から「揖屋大明神」と称していた。

『揖夜神社御由緒略記』
謹みて按ずるに當社は
伊弉冉命  大巳貴命
少彦名命  事代主命
の四柱大神を齊き祀る。その御鎮座の由緒はえい沓遠にして詳悉すべからずと云へど も、既に古事記神代巻には伊賦夜坂に就いて記され、降って日本紀齊明天皇御紀五年 (紀元1319年1275年前)是歳の絛に言屋社言屋此云伊浮耶出雲風土記に伊布 夜社延喜式神名帳に揖夜神社と載せられたり、古来朝廷の御崇敬厚く、三代實録に清 和天皇の貞観九年五月二日(紀元1527年1617年前)揖屋神従五位上、同十三 年十一月十日(紀元1531年1613年前)揖屋神正五位下御神階の御事見え特に 出雲国造奉仕の神社として仄くより別火の職を定めらる。固より歴代武将の崇敬も他 に異なるものあり、天文十二年三月廿七日(紀元2203年391年前)大内義隆は 太刀神馬を進獻し、同廿四年二月廿八日(紀元2215年379年前)尼子晴久は出 東郡氷室庄の内百貫を寄進し、天正十一年十一月廿四日(紀元2243年151年前 )毛利元秋は社殿を造立し、慶長六年卯月廿六日(紀元2261年333年前)堀尾 吉晴は社領四十石を寄せ、元和元年十一月廿七日(紀元2275年319年前)同忠 晴は社殿を再建し、寛永十一年九月廿六日(紀元2294年299年前)京極忠高は 舊領を安堵し次いで社殿の修造を行ひしが、更らに松平氏に迄っては、寛永十五年十 二年六日(紀元2298年296年前)初代直政社領五十三石を定めて年中の祭事を 執行はしめ爾来歴代の藩主咸この例によれり、而して社殿の營繕は所謂御修覆社とし て同藩作事方の手に成り、御遷宮には藩主の代参立ち、又古例によりて出雲国造の奉 仕ありき。

明治五年二月郷社に列し、同四十年四月廿八日勅令による神饌幣帛供進神 社の指定を受け、大正十五年十一月廿二日縣社に昇列す。
當社は意宇六社(熊野神社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神 社)の一として広く知られ、六社参りと唱へ参拝者が甚だ多い。

大祭  例祭  十月十九日
祈年祭 四月十九日
新嘗祭 十一月二十五日
古傳祭 田打祭 一月三日
田植祭 六月
穂掛祭 八月二十八日
一ツ石神幸祭 同日

「神奈備へようこそ」さん

武光誠氏「古代出雲王国の謎」

出雲氏は、はじめ意宇郡の一部の小国をまとめるために、先ず自家の祖神の上に熊野大神をおいて祀った。さらにそれと同格の佐太、野城の大神の上のくる大国主命をつくり、大国主命の祭祀を通じて出雲全体を押さえた。

このような形で出雲統一がなされると、出雲の首長たちは自分を出雲氏の下にではなく大国主命の下に位置づけることになる。出雲氏は他の首長と同格の大国主命の祭司にすぎない。つまり、出雲は神が治める国とされたのである。そのようなものは、神政国家とよぶのがふさわしい。

大和朝廷が祀った神とは違い、大国主命は他の神々の自由な活動を受け入れる神とされた。これは、出雲氏が大国主命の祭祀により出雲の豪族をまとめたが、彼らの内政に関与しなかったことに対応する。出雲市が自家の祖神を配下の豪族に拝ませる形をとったなら、出雲の統一はこれほど早くおこなわれなかったろう。

そのため、『出雲国風土記』に数多くの神の活躍がみられることになった。
大和朝廷の支配が強化される段階で、出雲神のいくつかは中央の神統譜に組み込まれた。もとは独立神であった(熊野大社の)熊野加武呂命は、伊弉諾尊の子神とされた。

素盞鳴尊にはじまる系譜も、出雲氏がつくったものではなく、朝廷の指導のもとに形づくられていったのものである。

(中略)

出雲に多くの渡来系の神々が祀られている。このことは、新羅からの移住者があちこちにいたことを物語っている。

『出雲国風土記』には、出雲郡に韓かま社があったと伝える。『延喜式』には、それは「韓竈神社」として出てくる。そこには朝鮮半島で祀られていた、火をつかさどりかまどの守りとなる神の祭祀を行う集団が住んでいたのだろう。

『延喜式』には、出雲郡に三カ所、意宇郡に三カ所、計六カ所の「韓国伊太氐神社」がみえる。「伊太氐」は「射楯」を意味する。つまり、そこは朝鮮半島の武神を祀ったものなのだ。播磨国飾磨郡(姫路市)には、「射楯兵主神社」の名を持つ武神の社が見られる。

ここに上げた六社(前述)の韓国伊太氐神社は、すべて他の神社の相殿もしくは境内社とされている。そのことから、古くからいる首長が、朝鮮半島からの移住者の集団をとりこんだ歴史が浮かび上がってくる。移住者の神は、もとから祀られた神の客神となった。
秦氏と東漢氏の渡来は五世紀末である。彼らは、朝鮮半島の動乱を逃れて日本に来た。このことから類推して、韓国伊太氐神社を祀る集団の渡来も、五世紀末前後であったと考えられる。

境内・社叢

  

鳥居                    社号標


手水舎

   
狛犬

  
亀に乗った珍しい石灯籠


御神門


由緒案内板

  
参道両脇狛犬

  
拝殿                          拝殿(出雲らしい立派なしめ縄)

  
拝殿 扁額                 拝殿内にある神鏡

  
本殿

  
本殿左 境内式内社  同社坐韓国伊太氐神社  素盞嗚命 五十猛命

  
本殿右 三穂津姫神社(三穂津姫)(風土記社)

境内社

  
藁で作った龍蛇

  

  

稲荷社

地名・地誌

風土記の時代「揖屋」は「伊布」【いふや】と書かれた。

地 図

交通アクセス・周辺情報

黄泉比良坂

記紀神話の神産みや大国主の神話に登場する黄泉の国、もしくは根の国(古事記では根之堅洲国)との境である黄泉比良坂の比定地が当社の東方の揖屋町平賀にあり、石碑が建てられている(出雲郷・揖屋町の名所)。

参 考

「延喜式の調査」さん、ウィキペディア


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