式内 日出神社(畑山)
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概 要
社号 式内社 但馬国出石郡 日出神社
読み:古 ヒテ、現 ひで
江戸時代は「日出大明神」と称していた
所在地 兵庫県豊岡市但東町畑山329
旧地名 但馬国出石郡資母郷
御祭神 多遲摩比泥神(タジマヒデノカミ)
『国司文書 但馬神社系譜伝』 日足命(第三代出石県主)
御系譜 須賀諸男命-須賀芳男命-日足命・・・・石部臣命(石部神社)
例祭日 10月9日 秋祭例祭
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
出石郡(イツシ・いずし):23座(大9座・小14座)
式内社
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
(『国司文書 但馬故事記』から、第十七代仁徳天皇四十年夏四月頃の創建だと思われる。)
本殿様式 三間社流造
式内 日出神社論社
日出神社[ひで] 兵庫県豊岡市但東町畑山329
日出神社[ひので] 兵庫県豊岡市但東町南尾189
境内摂社(祭神)
稲荷神社
文化財
国指定文化財
日出神社本殿 三間社流造、こけら葺
附 棟札 2枚
宝永元年申ノ四月十一日の記があるもの
享保十一 丙午 天八月廿一日の記があるもの
一口メモ
出石から国道426、482号線を宮津方向へ進むと、赤花へ向かう県道701号線と分岐する旧道沿いに「日出神社」の標識が目立つので分かりやすい。集落内の旧道をしばらく進むと東側に面して社叢が見える。
歴史・由緒等
由 緒
創立年月不詳
延喜式の制小社に列し享保11年(1726)拝殿を建立し宝永元年(1704)社殿を修復せり。
明治3年(1870)社殿を現在地に移し同6年(1873)10月村社に列せらる。同21年(1888)遷宮を奉仕せるは社殿修繕の為なり。
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬故事記』出石郡に、
第十六代応神天皇四十年春正月、
須義芳男命の子・日足命をもって、出石県主と為す。日足命は、須義芳男命を荒木山に祀る。須義神これなり。(式内 須義神社:豊岡市出石町荒木)第十七代仁徳天皇四十年夏四月、
出石県(あがた)をもって、出石郡と為す。
六十七年春三月、日足命の子・磯部臣命をもって、出石郡司とす。
とある。次の県主が前の県主を祀るのが恒例であるので、第十七代仁徳天皇四十年夏四月頃の創建だと思われる。
祭神は、アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)四世孫・多遅摩比多訶神(タヂマヒダカ)。
多遅摩比泥とも、多遅摩斐泥とも書かれるらしく、社号の日出、鎮座地が日殿は、この祭神名から取られたものだろうか。神社の創立は明らかでないが、但馬最古の建築物のひとつ。
延喜式に但馬国出石郡の小社と記された式内社であります。現本殿の建立は、建築の様式技法から考察して室町時代末期の16世紀初頭と考えられ、その後、宝永元年(1704)、享保11年(1726)、明治21年(1888)に修理したことが棟札によって知られます。解体修理は昭和48年10月に着手し、翌昭和49年11月に工事を完了しています。構造様式は旧規を踏襲し、後世改変された箇所は資料にもとづいて復旧し、覆屋も撤去して当初の姿に修復されました。
本殿は室町時代末期の様式技法をよく伝えているとして、昭和38年に兵庫県指定文化財となり、昭和45年6月に国指定の重要文化財となった。国の文化財保護審議会において「日出神社本殿は庇部分に後世の改造部分が多いが、手挟、蟇股など細部は当初材を残し、兵庫県における室町時代末期の三間社流造本殿の一例として保存すべきものと考える」と評価されています。
「社頭掲示板」
境内・社叢
改修前(2008.9撮影) 改修工事中(2013.5.7撮影)
手水鉢
狛犬
本殿 (改修中)
本殿左境内社 脇 舞台
地名・地誌
畑山
『但馬故事記』
人皇21代雄略天皇17年春三月
これにおいて土師たちの祖、
摂津国来狭狭村、山背国内村・
丹波国天田郡土師村、因幡国智頭郡土師村、
但馬国出石郡
これなり。(中略)
この郡の贅埴師が居る所を
埴田の陶人が居る所を埴田山と云う。(のち畑山と云う)
清器を作る所を御出石村と云う。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
但馬の神社と歴史三部作
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