式内 日原神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社号 式内社 丹後国加佐郡 日原神社
読み: 古 ヒハラ、現 ひはら、ひばら
所在地 京都府舞鶴市女布字日原353
旧地名 丹後国加佐郡田邊郷?女布村
御祭神 天日腹大科度美神(あめのひばらおほしなどみのかみ)、倉稻魂(うかのみたま)

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
加佐郡(カサ):11座(大1座・小10座)
式内社

近代社格制度 旧村社

創建  朱鳥元年(686)
本殿様式 入母屋造

境内摂社(祭神)

当勝神社

一口メモ

さて、神社の所在地の地名、女布が気になっていた。女布を「にょう」と読む。私の住む但馬国府があった場所も祢布とかいて「にょう」と発音するからである。女布は古代には祢布(ネフ)と書いたが、中古から今の名に改められた。{女布|めふ}原で「めはら」と読んだが、延喜式神名帳記載の際に役人が、めはらと聞いて誤って目原という字を充てて記載したのではないかと思われる。文字がない時代から、漢字が伝わり、中央の役人が漢字で記録に残す際には、こうした誤字は珍しいことではない。
『和名抄』で但馬の郷名でも、三カ所の記録間違いがある。
◯伊由郷(イユ) → 伊田郷と書いてしまいイダになった
、◯建屋郷(タキノヤ)→ ?遠屋郷
◯安美郷(アミ) → 穴見郷と書いてしまいアナミになった
メハラ神社であるはずが、日原神社と書かれたため ひはらとなったようである。

縁起・由緒
『女布史』によれば、「天武天皇ノ朝朱鳥元年(686)、丹後国加佐郡二天之日原大科度美命ヲ祀ル」とあり、「又天平年中、僧行基金峰山二菩提寺ヲ建立シ山頂二素盞鳴命多紀理比売命大年命ヲ合祀シ牛頭天皇ト称へ奥院二天之御中主命ヲ祀り禰布ノ神ト云フ」とある。

『ふるさと女布』
女布の産土神、延喜式内日原神社は、朱鳥元年(686)に祭祀されたと伝えられているが、白鳳年間(650-680)天武天皇のころに既に九社明神の神事が行われたともいうから、あるいはそれ以前に祭祀されていたのではないか、とも思われる。

祭神は天日腹大科度美神(丹後国加佐郡女布村日原神社御旅所略縁起)とも、日臣命とも伝えられる。天日腹大科度美神は大国主神の裔、若昼女神を母神とする、日臣命は高魂命の裔として大伴氏の遠祖であると(舞鶴市史より)。

日臣命は神武御東征の砌り、先陣を承り、熊野より大和へ入り給う時、八咫烏の先導で道を開き進まれて大いに功労あり、神武天皇より賞され、道臣命と改めよと仰せられたという(日本書紀より)。

《舞鶴市史》

日原神社は一説に「田辺朝代町 朝代大明神伊奘諾命」(丹後旧事記)とするが、これは誤りと思われる。祭神は天日腹大科度美神(丹後国加佐郡女布村日原神社御旅所略縁起)とも、日臣命とも伝えられる。大科度美神は大国主命の裔、若昼女神を母神としている(古事記)。因みにヒルメ・ミヌメなどは太陽母神に仕える巫女的性格がつよく(折口信夫全集・二巻)、その子科度美神は祓に関与する神名でないかと考えられる。また日臣命は「高志連。高魂命の九世の孫、日臣命の後なり」(『姓氏録』右京神別上)あるいは「高志壬生連。日臣命の七世の孫、室屋の大連の後なり」(同)とあり、壬生の名は古代信仰上きわめて重要である。所在地の女布は熊野郡久美浜町に同じ地名があり、式内社の売女神社がある。更に竹野郡網野町にも同名の神社があり、ここは旧和田上野村字女布谷である。この地方ではヒメフ・メブなどと呼称するが、この売女の神の系統は山陰道に点在する。本市の女布がメブ・ミブ・ニフ・ニュウなどの転訛ならば、日の神に仕える”水の神”(折口信夫全集・二巻他)として注目され、日原神社もこれと無関係ではないと思われる。
境内・社叢

女布集落の奥で軽四がやっと通れる川伝いに進むと鳥居。そこから二の鳥居をくぐると石段上に広い境内が広がる。

境内・社叢

  
一ノ鳥居                      社号標と狛犬 二ノの鳥居

  
境内                        拝殿

  
本殿覆屋                      境内社

地名・地誌

《加佐郡誌》
女布は古代には彌布と書いたが中古から今の名に改められた。中筋村字京田との境に白雲山がある。此処は一色氏の臣森脇宗坡の城址であるとのことである。宗坡は中筋村の郷士であった。後に細川氏に敗られたけれども後胤と称するものが今なほ現存している。森脇庄左衛門は此一族の宗家である。此処の古谷山隣松寺及舞鶴町引土の愛宕祠は宗坡が建設したものである。又宗坡が娘であって丹波何鹿郡滋賀里村の郷士赤井氏に嫁せし者に就いて世俗に伝ふるところの伝説は第五篇口碑伝説の章に精しく述べてある。

女布(にょう)

女布(にょう)と丹生(にゅう)という地名は丹後や但馬にも多く、拙者の所在地も祢布と書いて「にょう」と読むので同じである。文字がない頃からの古い地名の漢字自体に意味はないが、その意味にふさわしい字を当てたものである。

そう感じていたら「丹後の地名地理・歴史資料集」さんが、

山林地帯と農家・一般住宅・会社・工場などが混在している。新興住宅の女布新町や女布北町などがある。
弥生期の女布遺跡があり、西舞鶴発祥の地ともされる。
何とも不思議な地名で、全国的な注目が集まる。禰布なら漢字通りに読めばネフだが・現在ニョウと呼ばれるようにニフかも知れない。ネウでもニウでも丹生で、水銀産地の地名と思われる。

女布村は江戸期~明治22年の村名。同22年高野村の大字となる。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字となる。

ことばとして「にょう」とは辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域。朱の原料は、天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。朱は、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具としたのである。神社が朱に塗られるのもそういうわけだ。

因みに売布神社も所在地が女布であることがほぼ一致している。「ひめふ、めふ」神社と呼ばれるが、元々は「みょう・にょう」と発音していた方が正確であろう。

この神社の川下に御旅所の「下森神社」が鎮座する。その付近は「女布遺跡」の地で、縄文期からの遺跡であり、西舞鶴発祥の地とも言われる。南向かいの山上には金峰神社があり、その奥宮に禰布神社がある。

すごい所に鎮座する式内社で、水銀と関係があると考えねばならないが、それらしき伝承は現在に伝わらない。地名辞書は目原としてメフとしている。日は目の誤植ではないだろうか?

《丹生の研究》

丹後の丹生

丹後の舞鶴湾の咽喉部に大丹生がある。いまは舞鶴市域に加わっているが,近ごろの市域のことであるから,東舞鶴港から1時間も船にゆられなければ行きつかない僻地で,もとの行政区画の京都府加佐郡西大浦村大丹生と表示する方がふさわしい。訪れてみると,この大丹生は,舞鶴湾口の狭い海峡に面しているが,それでも小さな入海を抱いて波静かであり,海岸から2.5kmの谷奥まで楔形に耕地が拡がる。この谷のなかを大丹生川が流れているが,河の左岸つまり南側は黒色の土壌であるのに,右岸は水銀の鉱染をうけて赤い土があらわれ,それは部落の北にそびえる赤坂山につづいている。この土壌には水銀0.00051%が含まれ(昭和別年7月30日採取),この僻地に大丹生が存在する理由を頷かせた。

大丹生部落の南隅には海辺の白砂の上に大丹生神社が鎮まる。しかしこの社名は明治になつて郷名に基いて呼称されたもので,実体は山王社にほかならない。この村には別に海辺から約1kmの奥に今は奥の宮と呼ばれている熊野社がある。それからさらに奥に進んだ丘陵面に宮の尾という地名も残っているが,これ以上むかしの大丹生の人たちに信仰された神の正体を捜ることはできない。丹生の実状に即したニウヅヒメ祭祀は,すでに村民の生活が変つている以上,追求できなくなってしまった。古記録はむろんない。ただ古老(堂本松之助・上林新吾の両氏)に訊ねて,大丹生に対比して考えられがちな小丹生の名がどこにもないことは,確かめることができた。

ところで,大丹生の北,舞鶴湾の湾口部に湾に面して浦丹生という小部落がある。これは丹後半島の東北岸に見出される蒲入(がまにう,与謝郡本庄村)とともに,丹後のどこかに丹生を設定しなければ解けない名称である。この疑問に対して,私は舞鶴市の南郊に位する女布(にょう)をまず取上げた。ここは国鉄西舞鶴駅から西南に2kmをはなれ,もと丹後国加佐郡中筋村に属していた。私は昭和37年11月6日に,前章で紹介した丹後の伊加里神社を探求に行ったとき,偶然足を踏みいれることができたが,そこは300m級の丘陵に包まれて北向きの姿を見せる別天地であった。部落の背後の山のかなたには,真言系修験の形跡を留める高野(こうや)の地があり,またこのあたり一帯の山の腰には水銀の分析値0.009%を示した試料が得られたほどの土壌が歴然としている。したがって,朱砂の産出を意味するニフという地名を漢字で女布と表記したと考えることができる。

その後,友人の永江秀雄氏の指教によって,私は女布と称する地点がこの附近になおいくつか存在することを知った。京都府竹野郡網野町木津の下和田に女布(にょお)谷がある。これと山すじ1つを距てた西側の熊野郡久美浜町には,旧の田村の関部落に女布(にょお)という小字があり,女布権現山(343m)がそびえ,“女布の赤土”が有名であったという。しかしこれらの女布を丹生の異字とする考えにブレーキをかけたのは「出雲風土記」であった。この書の意宇郡の条に,神武官が配されていた48の官社を挙げてあるうちの1つ売布(めふ)社がそれである。今日,同名の社は上記の竹野郡や熊野郡の女布にも鎮座しているし,但馬・出雲にかけて分布している。この神社の正体を究明してみないと結論を急ぐことにはできないと,痛感している。…
「丹後の地名地理・歴史資料集」さんから

西舞鶴の南部。高野川の支流、女布川の上流に位置する。女布集落の西端、千石山の東麓にある。加佐郡式内社「日原(ヒハラノ)社」に比定される。祭神は天日腹大科度美神(女布日原神社御旅所略縁起)とも日臣神(加佐郡誌)とも伝えるが不詳。この神社の川下に御旅所の「下森神社」が鎮座する。その付近は「女布遺跡」の地で、縄文期からの遺跡であり、西舞鶴発祥の地とも言われる。

日原神社は、舞鶴市街地から綾部に向かうJR舞鶴線と並行して走る国道27号を南下するが、朝代神社から女布まで川伝いに旧道を行った。西舞鶴の南部。高野川の支流、女布川の上流に位置する。女布集落の西端、千石山の東麓にある。
加佐郡式内社「日原(ヒハラノ)社」に比定される。祭神は天日腹大科度美神(女布日原神社御旅所略縁起)とも日臣神(加佐郡誌)とも伝えるが不詳。日原神社という由来が不明だ。

周辺情報

女布遺跡、下森神社、金峰神社、禰布神社

地図

参 考

「神詣」さん、「丹後の地名地理・歴史資料集」さん、「丹生の民俗」さん

Follow me!


0件のコメント

コメントを残す

アバタープレースホルダー

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA