式内 日置神社(福井県高浜町)
Contents
概 要
社号 式内 日置神社
式内社 若狭国大飯郡 日置神社
読み:古 ヒオキ、現 ひき
所在地 福井県大飯郡高浜町日置字半ノ木49-23
旧地名 若狭国大飯郡青郷
御祭神 應神天皇(応神天皇)
例祭日 10月9日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
北陸道神 352座 大 14座(就中一座月次新嘗。)小 338座
若狭国(ワカサ) 式内社42座(大3座・小39座)
大飯郡(オホヒ・おおい) 7座(貞・並小)
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
本殿様式 流造 檜皮葺
境内摂社(祭神)
詳細は不明
一口メモ
福井県の高浜町にある。
小浜線・三松駅の西1Kmほどの日置に鎮座。
青郷駅と三松駅の中間地点にある。27号線の日置交差点からナビを確認しながら南下し、集落の中を通り車道から山側へ上る坂道に小さな祠があるが、神社を示すものが何も無いので、番地まで確認するがナビはここを指している。
青海神社からそう遠くない。式内社同志なら近すぎる距離なので、どちらかが遷座されてきたか。。。
歴史・由緒等
縁起
延喜式神名帳所載の若狭国三一座の内の日置神社は、当社のことである。享保一四年(一七二九) に神主尉藤原定住が 『日置之神社伝来之略記』、
概ね、次のように記している。「聖武天皇の御宇(七二四~七四九)には、
三松と日置との間に鎮座されていた。御祭神の神秘な光は、あらゆる方向に輝き渡って目出度いことや、小思議なことが起った。そのことが遠近の国々に伝ったので参拝者も多く祭祀は、厳格、壮厳に執り行われて、既に、千七百年に及んでいる。永享年中(一四二九~四一)に、内之捕小黒飯城主大草伊賀守忠基公が、日引邑に社殿を遷し、兵家の守護神と崇められた。
ところが、宝徳元年(一四四九)九月九日夜に一瀬氏定幸に神託があったの、今の地の杉谷に遷し奉った。この社が、『延喜式』の神名帳に所載の日置之神社である。 御祭神の正直慈悲の誓いは、古今を問わずいや増して 深く信仰する人々の真心に感応して、不思議な前兆を示されたので、当郷の産土神、諸寺の鎮守として崇められた。
国主は、神域や神田の年貢を免除して祭祀の料とされたが、戦乱の世となって、荒廃した。 宝永(一七〇四~一一)の頃から、父祖が建立した規模で再建・再興したいと志願して努めて来た念願が適って、享保一四年に漸く、その功を終え三種の神宝を奉納することが出来た」と述べている。日置を「ヘキ」「ヒキ」と訓をつけているが、現在は、ヒキ神社と称し、中世から近世にかけて、「杉谷荒神」「荒神サン」と呼んでいる。これについて『若狭国官社私考』に、康永三年(一三四四)に守護大高重成が、日引村の瑞泉寺を日置に移し、臨済宗瑞應山大成寺として再建した時に、日置神社の神域を侵して寺を建てたので、神社が寺域に入り恰も寺の鎮守のような形になって荒神様と名をつけたものである」と記している。
-福井県神社庁-
境内・社叢
参道手前の末社 手水舎
鳥居 本殿覆屋側面
苔むした階段と境内 苔がビロードのようにきれいだ。 境内社
地名・地誌
高浜町は福井県の最西端に位置し、青葉山(別名・若狭富士)を境にして京都府舞鶴市などと接している。また、北陸地方の最西端の市町村でもある。
地図
交通アクセス・周辺情報
若狭湾の海水浴場、青葉山(別名・若狭富士)
参 考
『延喜式の調査』さん、他
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