式内 波弥神社
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概 要
社号 式内社 丹後国丹波郡 波彌神社
読み:古 ハミ、現 はみ
江戸時代は「天酒大明神」と称していた
所在地 京都府京丹後市峰山町荒山字井行内554-1
旧地名 丹後国丹波郡(中郡)
御祭神 建埴安命(ハニヤスノミコト)
例祭日 10月10日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
丹波郡[タハ]:9座 大2小7
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 流造
境内摂社(祭神)
愛宕神社 火産霊命(ほむすびのみこと)
埴山姫命(はにやまひめのみこと)
稚産霊命(わかむすびのみこと)
一口メモ
国道312号と482号が合流する交差点を482号に北上しすぐ府道656号へ右折する。しばらく行くと社号標があった。
境内は広々としており、神垣のある立派な社殿と石灯籠。
歴史・由緒等
創建等の由緒不明
主祭神に付いては諸説あり、 式内社調査報告によれば、「豊受姫命」では無かろうかと書かれている。
『峰山郷土志』
【波弥神社(式内社、新山、荒山井行内、祭神 建埴安命)】
宝暦三年(『峯山明細記』)
天酒大明神(七社の内)祢宜は当村の半太夫支配。神子は峯山の下町の十寸見(とすみか)の受持ちである。三尺社、上屋二間四面、境内 六間四面、但し山の間数は知りがたく、祭礼は九月一日で、神子十寸見を雇って神事を勤めさせた。
文化七年(『丹後旧事紀』)
波弥神社、荒汐の里(今の荒山村なり)、祭神 天酒大明神 豊宇賀能メ命……神記にいうには、波弥とは咋神社という意味である。真奈為の神伝に、養父漣母(和奈佐翁御媼)のことを思うと、荒汐の中にいる心持がするといったので、それをもって村の名としたのである。今この村を荒山というが、どのようなわけがあって、村の名が変わったのか知らない。こうした例は多くあることである。
また『中郡誌稿』に引例する『丹後旧事記』によると、「波弥神社(ナミイヤ)神子橋本氏、荒汐里、祭神(同上、省略する)、神記に曰く、波弥とは咋神社(ハム)の意で……(『風上記』の伝説、真名為の神伝省略する)…小松国康は波弥神社のこと、与佐郡宮津艮ノ方(東北)にハミという村があり、祭神稲の神豊宇賀迺メ命なりと、または宇賀神ともいうなり。これを村の名と社の名と一にして、ハムの義を取れり。今は白山妙理大権現なりといへり……」とあって、ハミ村とハミ神社の名称の起原を説明しながら、「ナミイヤ」と振仮名をしている。当時の祭神は、白山妙理大権現で神仏混淆時代の状態を物語っている。また『丹後旧事記』も、写本によって記事が幾分異なっているし、与佐郡にも波見村があるから、なお研究を要する。
この神は『丹後風土記』の伝説による八人の天女のうちの一人で、天酒大明神とは九座一神の豊宇賀能売命であり『丹哥府志』も同じ説である。また、『神社取調』は、諸説をあつめて、阿当護山破无神埴安姫の埴は波弥に通じているといい、『古事記』の中にある波多八代宿祢は、波美臣の祖で、建内宿禰の子孫が、その祖先をまつったのであろうし、また、与謝郡、加佐郡の彼見村も、この波美臣の子孫であろうといっている。この「ハミという村」は与謝郡波見村をさしており、荒汐里(荒山村)を波弥村と呼んだ例はないようである。
波美について、峰高郷研編『古代丹後文化圏』は、波美は{蝮|マムシ}であると『和名抄』にあるから、大蛇をいったのであろう。荒山も荒らぶる神の山から名付けたのであろう。この谷の奥に、ミセン(弥山)とて霊威の強い神社があるという-と述べている。なお、荒山村の属する郡名については、中郡とも、丹波郡とも、竹野郡ともあり、祭日も九月一日、あるいは十月十日ともある。
竹野郡となっているのは、荒山ばかりではない。峰山町や、稲代神社を竹野郡としている資料は他にもあり、丹後五郡とよくとりちがえられている。
境内・社叢
社号標
一ノ鳥居 ニノ鳥居・参道石段
中門拝殿 本殿
石灯籠 境内社
地名・地誌
荒山
世帯数765の大集落。
アラは加悦にも安良山があるが、それと同じ光明を意味する渡来語と思われる、周枳に荒塩神社があり、そのあたりはアラスとも呼ばれた、舞鶴や大江町にも阿良須神社がある。
荒山村は、江戸期~明治22年の村名。枝村に小島・新町境と竹野川西岸の中野がある。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年新山村の大字となる。
荒山は、明治22年~現在の大字名。はじめ新山村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。
ー「丹後の地名」さんー
丹後国丹波郡は江戸時代くらいから中郡と呼ばれていた。
地 図
交通アクセス・周辺情報
弥生後期の集落遺跡と推定される荒山遺跡、同じく八幡池遺跡がある。八幡池遺跡は扇谷遺跡と関連をもった遺跡と思われる。なお扇谷遺跡と八幡池遺跡の中間に八幡山古墳群(四基)があり、その中心は前方後円墳。
七尾遺跡
丹後地域に知られる最も古い弥生墳墓は、前期末の丘陵上の環濠集落峰山町扇谷遺跡に隣接する七尾遺跡である。丘陵上に営まれた一辺一○メートルの二基の方形台状墓で、それぞれ一基程度の木棺を納めたものと考えられる。ほぼ同時期の豊岡市駄坂舟隠墳墓群は、方形周溝墓群と墳墓の形は異なるものの、いずれも丘陵上の墳墓であることは、平野部の少ない丹後・但馬地域のその後の弥生墳墓の立地を示唆するものである。).66(丹後には先述のように箱形木棺二形式、舟底状木棺三形式が存在することを確認した。では、これらがどのような変遷をたどるのか時期ごとに概観してみたい。
前期 この時期に属する墳墓は峰山町七尾遺跡が知られる。前期末の年代観が与えられており、二基の台状墓から構成される。墳丘の造成は周辺部分を整形し、方形に削り出す。埋葬施設は一墳丘に二基ずつ設けられ、報告によれば木棺墓と土壙墓とされているが棺の痕跡は明確ではない。木棺墓とされる墓壙の規模から仮に箱形木棺I類が埋納されたとみた場合、いずれの墓壙も十分伸展葬を行なえる規模をもつ。墓壙は素掘の形態をとる。
ー「丹後の地名」さんー
参 考
「丹後の地名」、『延喜式の調査』さん
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