式内 深田部神社
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概 要
社 号 式内 深田部神社
式内社 丹後国竹野郡 深田部神社
読み:古 フカタヘ、現 ふかだべ
所在地 京都府京丹後市弥栄町字黒部深田411
旧地名 丹後国竹野郡
御祭神
宇氣母智神(ウケモチ)=保食神
八幡大神(ハチマンオオカミ)=(応神天皇)
天照大神(アマテラスオオカミ)
天兒屋根命(アメノコヤネ)例祭日 10月9日・10日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
竹野郡(タカノ):14座(大1座・小13座)
近代社格制度 旧村社
創建
本殿様式
境内摂社(祭神)
稲荷神社 宇賀能魂命
須賀神社 素佐之雄命
神功神社 帯中日子天皇(仲哀天皇) 息長帯比賣命(神功皇后)
一口メモ
南北に流れる竹野川の東岸、国道482号の黒部小学校前の小山に鎮座。長い参道の石段を登ると広い境内。比較的新しい狛犬の奥に、相当古くて形を留めない狛犬。
拝殿ではないお堂があるのは丹後の他の神社でも見かける配置の奥に本殿が立派な覆屋に鎮座。右横に境内社稲荷神社。さらに本殿奥に須賀神社と神功神社が鎮座されている。
帰りがけに気づいたが北側に軽四なら通れそうな車で登れる道があった。どこの神社でも境内まで行ったあとで車道に気づくのだが、参道から石段をしんどい思いをしながらお参りする方がその神社への理解を深めるのにふさわしいのは言うまでもない。
歴史・由緒等
由緒
豊宇気大神は崇神天皇十年癸己丹波道主命に詔り給ひ、国中に不服者あらば射向けよとの大命により、 当国に下りたまひ平定の後、此国を治し坐せる時に、御稔豊に国人の安穏に日足り行かん事を欲し、 坐して穀物に幸ひ給ふ、此一柱の大神を此地に鎮め奉り給ひしなり、明治の初村杜に列せらる。
明治四十年三月一日神饌幣帛料を供進し得へき神社に指定せらる
≪丹後国竹野郡誌より抜粋≫
『弥栄町史』
深田部神社 字黒部八幡山鎮座
元村社 延喜式内社
神饌幣帛料供進し得べき神社指定
祭神 宇気母智神(豊受大神)
八幡大神(誉田別尊後応神天皇) 天児屋根命(春日大神)
天照皇大神
由緒 神社明細帳及び同神社の古文書によると深田部神社の主神は元来宇気母智神で、上古崇神天皇十年九月(約二千五十年前)開化天皇の御孫丹波道主命に詔し給い背面なる国中に服せざるものあれば言向けよとの大命をもって当国に下り給い、平定後この国を治められし時五穀の稔り豊かに国土安穏ならん事を思召され、穀物を掌る宇気母智の神をこの地に鎮め給うとある。ゆえに当社は皇族丹波道主命の創祀されたるもので一般里人が勧請して分霊を奉祀せるものと趣きを異にする。爾来星霜を経て応仁年間(約五百年前)「神社は痛く荒廃し、宮柱も朽ち果てければ里人等相謀り深田山に鎮座の八幡社に遷し合祀せり」とある。
もとの社地は、当社の北の方三百メートル余り隔てた小字野崎の岡で、その岡の草叢にはその後一本の榎を植え永く神跡の証としたが、現在黒部小学校の敷地となり、校庭拡張の際多少移動したが今なお現存している。社名深田部の名は社説によれば「昔当地は海原であったが漸く潮水引き其の跡深き沼田となる。其時の状態自然地名となり深田という。此地に神社創立されたため深田部神社という」とある。通称八幡様というのは配神である八幡大神を宇気母智命を遷祀する以前より祭祀し、このお山を八幡山と称したのによる。八幡大神の創祖された年代は不詳であるが、鎌倉時代源家の氏神であり武将の崇敬篤く全国に祭祀され当地にも古くから祭祀されていたようで、長保三年八月(約千年前)の丹後地検帳という古文書に当社の社領地のあったことが記してあるそうである。配神天照皇大神、天児屋根命の創祀された年月その他由緒不詳であるが、神輿三社あって、
一つは八幡大神
一つは天照皇大神
一つは天児屋根命で毎年秋祭の時本社より南方二百余メートル隔てた神幸所へ行幸する。旧来より各大神に一人の旗本と称するものがいて神幸の際供奉した。
天照皇大神の旗本谷口家
八幡大神の 同 藤田家
天児屋根命の同 垣中家
当社は日本国内に類社なく、ただ岡山県備前の国上道郡幡多村字今谷に一社がある式内社であって、深田神社という当社よりの分霊年代は不明であるが、明治二十八年全国古社取調べにあたって先方深田神社社掌岡本真潔氏よりの照会で神護景雲二年(千二百年前)らしいと判明した。
境内・社叢
社叢
木の鳥居 参道と社殿
石灯籠と6神名を刻まれた六角柱の社日塔 手水鉢
狛犬
拝殿 本殿と大きな覆屋
本殿右手の摂社稲荷神社 奥の境内社 須賀神社 神功神社
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