式内 登弥神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 登弥神社 通称:木嶋大明神
式内社 大和国添下郡 登彌神社
読み:古 トミ、現 とみじんじゃ
所在地 奈良市石木町648-1
旧地名 大和国添下郡
御祭神
東本殿 高皇産霊神(たかみむすびのかみ) 誉田別命(ほむたわけのみこと=応神天皇)
西本殿 神皇産霊神(かみむすびのかみ) 登美饒速日命(とみにぎはやひのみこと) 天児屋命(あめのこやねのみこと)
例祭日 例祭 10月9日 筒粥祭 2月1日

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
大和国:286座
286座 大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)
添下郡[そえじも]:10座 大4座 小6座

近代社格制度 旧村社 昭和14年 旧県社

創建    年代不詳
本殿様式  本殿2棟 春日造 桧皮葺

境内摂末社(祭神)

豊穂神社 祭神:大日孁神 豊受比賣神 天宇受女神
荒神神社 祭神:大山祇神 庭高津日神
山室神社 祭神:大物主神 菅原道真公
比良田神社 祭神:猿田彦神 大己貴神 八重事代主神
祓殿社 祭神:瀬織津姫神 速秋津姫神 速佐須良姫神 気吹戸主神 表筒男神 中筒男神 底筒男神

文化財

粥占 奈良市無形文化財

一口メモ

第二阪奈道路から砂茶屋橋東詰交差点を南に折れ、富雄川沿い両側に上下通行の車道がまっすぐ延び石木橋から旧道に入るカーブのすぐ前。奈良市内の式内社では市街地から離れた西南に位置するが、枚岡神社が元春日とよばれ大和遷幸され春日大社となったとされるが、饒速日命を祀る石切神社(石切剣箭神社)から登美の丘へ遷ったとされる神社なのではずせない神社だ。なお、西方、大和郡山市にも同じいわれの饒速日命を祭神とする式内大 矢田坐久志玉比古神社がある。

歴史・由緒等

御由緒
皇紀四年、春二月二十三日、神武天皇が、この地に於いて、皇祖天神を祭祀されたのが、 そもそもの淵源であり、その後、登美連が、祖先である天孫饒速日命の住居地- 白庭山であった、この地に、命ご夫妻を奉祀したのが、当神社のご創建であります。
-参道の碑より-

登彌神社は延喜式の式内社であり、古くより木嶋大明神、また鳥見明神と称され親しまれてきました。
神武天皇の大和地方平定に功績のあった饒速日命の子孫である登美連が、ゆかりのこの地に先祖と天地地祇を祀ったのが当社のご創建であります。この地方には豪族長髄彦が饒速日命を奉じて勢力を振るい、そのため東征途上の神倭伊波礼毘古(後の神武天皇)は大変苦戦されました。しかし、奇しくも瑞鳥金鵄の出現と饒速日命の忠誠によって長髄彦を征討し、大和平定の大業を完遂されたのです。やがて天皇は、紀元四年春二月二十三日、鳥見山中の霊畤によって皇祖天神を祭祀し、神恩感謝の御祭りを斎行されました(日本書紀による)が、その場所が当地であったといわれております。

また、神護慶雲二年(704年)、枚岡明神(大阪府東大阪市)が春日に遷幸されるおり、暫し当地にお休みになられたご縁で、和銅年間に春日大明神を勧請したと記録にあることから、奈良町のかなり以前から既に創建されていたと考えられます。
昭和十四年(1939年)ご由緒の故を以って県社に列格されています。
戦後は、神社の国家管理を離れ、神社本庁に所属する宗教法人登彌神社として現在に至っています。

式内社として天神地祇二十二柱を奉祀し、木嶋大明神と称されている。2月1日の粥占は奈良市の無形文化財指定の伝統行事。また植付感謝、豊饒祈念祭での御湯神事も有名。

ー『巡る奈良』奈良県観光局ー

境内・社叢

  
鳥居                   参道

  
二の鳥居                 社頭案内碑


手水舎

  
拝殿                   本殿

   
本殿左摂社                右摂社

地名・地誌

一帯は奈良時代に「登美郷」、和名抄に「鳥貝(見?)郷」、中世には「登美庄」・「鳥見庄」

地 図

奈良市石木町648-1

交通アクセス・周辺情報

近鉄郡山駅から若草台行きバス「木島(このしま)」下車すぐ

参 考

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