式内 神田神社
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概 要
社号 式内社 丹波国多紀郡 神田神社
読み 古 カムタ、現 かうだ→こうだ
江戸時代は「一の宮神田大明神」
所在地 兵庫県篠山市大山上古川坪728
旧地名 丹波国多紀郡大山村
御祭神 大己貴神(おおなむちのかみ)
例祭日 10月9日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹波国(タンバ):71座(大5座・小66座)
多紀郡(タキ):9座(大2座・小7座)
式内社
近代社格制度 旧県社
創建 大宝二年(702)
本殿様式 入母屋造檜皮葺
境内摂社(祭神)
一口メモ
JR福知山線丹波大山駅前から、国道176号線を北へ4.2 km。
篠山市から丹波市に通じる国道176号線の大山上バス停西側の丘上に鎮座。
国道側から車を止めて境内に入ったが、鳥居・参道石段は南側の旧道にある。
歴史・由緒等
由 緒
大宝2年(702)、勧請。醍醐天皇の延喜式には、多紀郡九座の一とある。神田大明神と称し、皇室を初め、武家名門の崇敬篤く、承保元年(1074)の大嘗会のおり、大江国房、当社の御神徳を称え、詠う記録あり。
応保2年(1162)、今の地に遷座。戦国時代、足利氏の崇敬篤く、般若経を寄進し武運長久を祈る。
応永元年(1394)、足利義持が征夷大将軍に任ぜられるおり、執事の細川満元に教書を奉呈させ、武運長久を祈る。
天正6年(1578)、兵火により焼失。後に再建。
延宝8年(1680)修繕。
徳川氏の代、篠山城主の祈願所とし、代々崇敬寄進あり。
延宝4年(1676)、城主松平氏より石手洗い鉢寄進ありて、現存す。
寛保2年(1742)、正一位神位を授けられ、正一位神田大明神と称す。明和2年(1765)、社殿改修。
大正4年(1915)、社殿後方へ移し、幣殿建立し、拝殿改修。昭和2年(1927)、神饌所建設。
「兵庫県神社庁」
社伝によれば大宝二年(702)九月九日、大山谷の石角(住)口に創祀されたという古社である。神田神社が鎮座する大山の里は、弘法大師空海が開基した京都東寺の荘園であったところで、空海の遺産である綜芸種智院を売却した代金で購入されたというところだ。承和十二年(845)、大山荘が立荘したとき、神社は大山荘の総鎮守社として崇められ一宮神社と称された。
白河天皇の承保元年(1074)、大嘗祭において神田郷で抜穂式が行われ、それを祝って大江匡房が「千早振る 神田の里の 稲なれば 月日と共に 久しかるべし」と詠じたことが『千載集』に見えている。かくして、神田神社は一宮神田大明神と称せられて、皇室はもとより公家・武家から篤い崇敬が寄せられた。その後、平安時代末期の応保二年(1162)十二月、参詣に便利なようにと現在地に遷座されたという。
神田神社は大山荘のみならず、中央においても重視されていたことがうかがわれる。ところが、戦国時代末期の天正六年八月、明智光秀が大山城の中沢氏を攻めたとき、その兵火にかかり殿宇・古記録のことごとくが焼失してしまった。
その後、ほどなくして神社は再建され、江戸時代になると篠山藩主の祈願所として崇敬を受けた。延宝八年(1680)、明和二年(1742)に修理が加えられ、寛保二年(1742)にはときの藩主松平信岑に尽力によって正一位を授けられ、以後、正一位神田大明神と称することになった。神社鳥居前の道はかつての旧山陰街道で、丹波から但馬に通じる街道として重要視され、多くの旅人が往来した。いまも街道の面影を残し、鳥居前の旧家西尾家の住宅と神社の森とが調和して快い風景を作り出している。
-「播磨屋」さんより-
境内・社叢
一ノ鳥居 二ノ鳥居
狛犬 社号標
境内
拝殿 本殿
本殿両脇の境内社
地名・地誌
篠山市(ささやまし)は、兵庫県中東部にある市。兵庫県中東部に位置し、東西30km、南北20kmのやや長方形で、広さは377.61km²で県内第8位、兵庫県域の約4.5%を占めている。
1999年4月1日に旧多紀郡篠山町・今田町・丹南町・西紀町の4町が合併し市制が施行された。
篠山市の誕生に際し、「自治体合併による人口4万以上の市制」を全国で初適用、平成の大合併のさきがけとなった。
兵庫県多紀郡は、篠山市誕生の3月31日以前は、篠山町・今田町・丹南町・西紀町の4町があった。篠山盆地を中心とする多紀郡は、近世篠山藩の支配を受けていた。篠山町は、篠山藩の城下町として、近世以来、多紀郡の中心として発展してきたが、この篠山町を中心とした多紀郡4町は比較的まとまりをもった地域であった。
1958年以来、6回目の合併協議がおこなわれたが、1996年に合併研究会が発足し、1997年に合併協議会が結成された。協議の結果、1999年4月1日に多紀郡4町が合併し、篠山市が誕生した。しかし合併後、市内各所で20億円規模の箱ものが建設され市民一人当たりの借金が一人当たり200万を超えるなど市の財政は悪化、一時財政再建団体となる危険性もあったため、財政健全化を求める声が多い。
アクセス面においては市内西部を縦貫するJR福知山線(宝塚線)の複線電化、舞鶴若狭自動車道(開通時は「舞鶴自動車道」)の開通により、大阪や阪神間へのアクセスは良くなっており、宝塚、伊丹へは片道40〜50分、大阪へは1時間程度といった通勤圏となっている。このことからも経済的には、舞鶴や福知山をはじめとする北近畿経済圏というよりは大阪経済圏といった方がよい。しかし人口はここ近年減少傾向にあり、地価の下落も著しい。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「播磨屋」さん、ウィキペディア他
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