式内 神田神社(真野)

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 神田神社

式内 近江国滋賀郡 神田神社
読み かんだじんじゃ
別 名 江戸時代は「牛頭天王社」

所在地 滋賀県大津市真野4-7-2
御祭神 彦国葺命ひこくにふくのみこと  天足彦国押人命あめおしたらしひこのみこと
御神紋 左三ツ巴
例祭日 5月 5日 例祭
1月 17日 さんやれ祭り
古代社格制度『延喜式神名帳』
東山道 式内社382座 大42(うち預月次新嘗5) 小340
近江国 155座 大 13座 小 142座
滋賀郡 8座 大3座 小 5座

近代社格制度 旧県社
創建   弘仁2年4月(811年)創建
本殿様式 一間社流造

境内摂末社(祭神)

棋神社 園神社

神宮寺

一口メモ

真野は、JR堅田駅のすぐ北にある。琵琶湖大橋西詰にあたる。西の真野普門にある同名社とともに神田神社論社となっているが、当社は下社、真野普門の神田神社は上社とする一体の信仰として成り立っていたという。かつての神仏習合を伝える、全国的に珍しい神社でもある。

歴史・由緒等

崇神帝十年に武恒安彦と其妻吾田媛が謀反を起こして帝都を襲ったとき、天皇が彦国葺命に討伐の詔を下され、命はこれを討ち平げ、宸襟を安じ奉った。
その彦国葺命の裔孫和珥臣鳥務大肆忍勝が部下を率いて真野の地に居住し、持統四年に真野臣の氏姓を授けられた。その裔孫達が嵯峨天皇弘仁二年真野の入江の渚に近いカンタの地に遠祖を祀ったのが当社の創祀と伝えられる。
神階は正一位、延喜式内社で明治三十四年県社に列す。
毎年一月十七日に斎行の幸在祭は有名で、当社は往古現在地より当方に鎮座されていたのを、現在地に遷座された、この時の古式を表した神事と伝えられ、沢組、北組、中組の三部落の男子全員が浄火を松明に点じ午後七時過ぎ沢の藤の木に集合、宮元沢組より七人の太鼓組が鐘太鼓組合せて「サンヤレ、サンヤレ」と囃す。全員揃うと神社に進むがその途中もサンヤレ、サンヤレと叫び練り狂い乍ら参進する。神社に着いて神事あり、宮元沢組は帰ると最後の大練を演じ、謡曲「四海波」を演じ終る。
また稚児祭も珍しい神事で五月五日村座四組が交代で神事番につき、神事番は少年六人を選びこれを「コマ」と呼ぶ、コマは早且特定の冠、裃を着け鞭を持って、神榊、供物、供奉一同の参進の監視役を勤め、列の先頭を掌る。御旅所での祭典の際コマは献餅の奉仕をするが、役員衆より受取る供物の榊、燈明、神酒、鏡餅、鰣の串焼、米飯等を石垣に叩き壊し、或は遠くに投げ飛ばす等々乱暴の極みをする、役員衆はこれを咎める事が出事ず、コマの為すままに散乱破壊した神饌を拾い集め、土砂の附着したままにて献ずるのである。

「滋賀県神社庁」

当神社は延喜式神明帳という書物に載せられている旧滋賀郡にあった八社の中の一社で、第五代孝昭天皇をはじめその皇子、天足彦国押人命とその三世の孫、彦国葺命あわせて須佐之男命をお祀りするお社です。
彦国葺命は真野の遠祖で、その子孫が真野の入江の汀、神田(みとしろ)の地に神殿を建ててお祀りしたのが始まりで地名により神田神社と申し上げます。

彦国葺命は崇神天皇の10年(西暦紀元前87年)命により武埴安彦が率いる賊軍を討ち鎮められた知勇・学才誠に優れたお方であり今日 厄除・災除・勝運の神と仰がれております。
二の宮(八坂神社、天王社とも称されていた)にお祀りされた須佐之男命は天照大神の弟神であり病除けの神として古くから信仰されています。
真野 「まの」と訓み、大変古くから開けた神気ただよう素晴らしい土地の意であります。万葉集をはじめ種々の和歌集に真野を詠んだ歌が数多く見られるのも歴史上大事なところ由緒のある土地柄であることがうかがえます。
近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の 高嶺の 花を見るかな 源頼政

「社頭掲示板」

境内・社叢


鳥居

  
手水舎                      二の鳥居

   
狛犬

  
拝殿                       本殿

  
本殿右手 二宮                  境内左手 小宮

地名・地誌

地 図

滋賀県大津市真野4-7-2

交通アクセス・周辺情報

ホームページ http://www7b.biglobe.ne.jp/~kanda-jinja/

参 考

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