式内 笑原神社(京都府舞鶴市紺屋町)

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社号 式内社 丹後国加佐郡 笑原神社
読み: 古 ヤハラ、現 えばら
所在地 京都府舞鶴市紺屋町29
旧地名 丹後国加佐郡田邊郷
御祭神豊受大神、月夜見神

例祭日

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
加佐郡(カサ):11座(大1座・小10座)

総社 笶原魚居匏宮(そうじゃえばらまないよさのみや)
創建

境内摂末社(祭神) 稲荷神社

一口メモ

西舞鶴市街地の西、愛宕山東南麓の紺屋町にある。笶原と書いてえばらとは読めない。「笑原」ならそう読めるが、笑と笶は似て異なる字。淡路島南あわじ市八木にも同名社があるので笶原神社がある。笶は竹でつくる矢のこと。

歴史・由緒等

縁起

由緒
当神社は延喜式神名帳所載の神社であってその創立年月日は明かでないけれども歴朝の御崇敬深く霊験顕著なること慶長年間領主細川家御再建棟札標文に詳である寛文年間領主牧野家入国以前は地方民崇敬深く大社の古跡であったが漸く世の変遷につれて頽廃衰微し僅かに小社を存するばかりとなった然し古来の余風を残して朝代神社と同様其の祭典には各字総代等祭場に参列して神饌料を供え神事終了後直会の儀式を行うのを例としたけれども明治維新に際し両社とも其の祭事中絶したのである其の今に存続しているのは例祭の当夜谷口各町各字から境内に神灯を奉って尊崇の誠意を表し稍往昔の遺風を伝えて居る
ー「社頭掲示板」ー

「延喜式神社の調査」さんに、
古く高い由緒を有し、戦国期細川氏の信奉を受け、城下の崇敬を受けた大社であったものが、牧野氏が入国した寛文期以降は全く衰微したと伝えられる。

縁起

「丹後の地名地理・歴史資料集」さん

元伊勢という今の伊勢の伊勢神宮の故地ということで、まことに重要な伝承を伝える神社でもある。
残欠が真名井の近くの矢原山と言うし、その神名帳では笠水社ー笶原社ー伊吹戸社の順に並ぶのだから、式内社・笶原神社はここにしか考えようはない。

丹後海部氏の重要な拠点でもあった。丹後分国は和銅6年(713)で、勘注系図によれば丹波国造海部直愛志の児の海部直千成が笶原神宮の祝部の祖となっている。養老5年(721)より十五年勤めたとある。その児は橋木麿という。あるいは多門院あたりにいたかも知れないような名である。この矢原山は残欠の冒頭に出てくる加佐郡の最も重要な地である。海部氏が加佐郡支配の拠点をどこに置くかを考えても、やはりここであろう。

古代の長い時代に渡っての非常に大切な役割のあった社であったらしいことがわかる。

この地は天香語山命とか天村雲命とかが登場して説かれるのであるが、彼らは名から見れば金属神やヘビ神であろう、さて「神社旧辞録」のヤブ山という地名、そして実はこの神社の本当の名であるが、この考察が大変に鋭くて大変に面白い。
笶原とは「ヤブ」とも訓で但馬の養父と同義であって「ヤブ」は「ウブ」即ち初生(ウブ)が源であり、壬生(ミブ)
、弥布(ミフ)、養父(ヤブ)の神及び笶原(ヤブ)神社は太古よりの土着神生えぬきの村といはれる。

壬生や弥布(禰布の間違いか)語源を間違えているのでないのかとは思えるが、京都の壬生が有名でこの字はミブと読んでいるが、壬はミとは読めず本来はニフと読む。禰布もニフであろう。

《丹後風土記残欠》

笶原社

田造郷。田造と号くる所以は、往昔、天孫の降臨の時に、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようとしたが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで泥の真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原山に到り、根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、天香語山命がその泉を潅ぎ〔虫食で読めないところ意味不明のところを飛ばす〕その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。(以下四行虫食)

『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録)
若宮神社  祭神不詳  同市字野原
式内笶原神社の故地は此処とも伝ふ。村名に関し丹後国式内神社考にも矢原は野原にして鎮原村は矢原村なるべしとある。
なお笶原とは「ヤブ」とも訓で但馬の養父と同義であって「ヤブ」は「ウブ」即ち初生ウブが源であり、壬生ミブ、弥布ミフ、養父ヤブの神及び笶原ヤブ神社は太古よりの土着神生えぬきの村といはれる。

《舞鶴市史》
笶原神社も所在地に異説がある。その一つが野原の天満神社である。祭神は菅原道真であるが、「延喜式」成立時に道真は神として祀られていない。この天満神社については「旧語集」に天満宮(野原村の項)の名が見える。今日では天神は一般に菅公を指すが、本来的にし”天の神”であったと考えられ、人格神として固有の名を持たなかったが、特に室町期ごろから道真信仰と習合して信仰の昂揚が見られ、全国各地に天神講などが生れた。天神を祀る習俗は東・西大浦半島地区にも多く、これらは明治に入って天満神社(佐波賀,田井)北野神社(千歳)など社 号としたが、すべて祭神の天神を菅公に系譜を求めたものである。
野原が式内社の所在地であるとする説(神道道志流倍・大原美能理)は、野原の地名を重視して・現在のよみのノハラではなくて古くはヤハラであったとする。「特選神名帳」も字訓を重視して、鎮座地を野原と比定している。

もう一つの鎮座地説は、紺屋の笶原神社であるが、「旧事記」は神明宮と記し・現在も”神明さん”の呼称が根強く残っている。神明宮もまた全国的に分布しているが、元来は伊勢神宮の神領(御厨)に創建されたものである。ただ、当市には御厨が存在した確証がないから、御厨内の神社ではない。伊勢神宮の一般庶民への信仰流布は、中世以降御師の活動に負う場合が多く、御師は在地と師檀関係を結び信仰、文化の流布に努め、彼らの働きによって神明宮の創建を見た事例も多い。紺屋の神明宮は、「旧語集」によれば、元山伏の住寺で、のち清水姓の巫女の構えとなり、氏神朝代神社等の祭礼に奉仕している。諸国を巡る山伏は近世に入って定住化が進み、在地の巫女と結婚する例も多く、この神明宮も同様の経緯があったかも知れない。
第三の異説は、与保呂の日尾神社を比定する。この神社は「笶原神社は今池姫大明神と称す」(『丹哥府志』・上与保呂村)を指すが…

境内・社叢

  
鳥居                   社号標

  
社頭案内板                手水舎

  
社殿                   本殿覆屋

地名・地誌

紺屋町

「コンヤ」とか「コヤマチ」とか呼ばれている、西舞鶴市街地の中央部で、愛宕山のすぐ東麓に位置している。主に住宅地。細川時代から地子免除の町屋であったといい、地名の由来は、紺屋職人が集住したことによるとされる。

田辺城以前は、八田村が存在したが、当地はその中心地であったという。

当町西端は江戸期神明口といわれた門前で、愛宕山(西山・天香久山)のすそに笶原神社が鎮座。南端の引土新との境に応永8年創建の曹洞宗桂林寺(もと洞林寺)がある。

「丹後旧語集」に「紺屋町南の端東側の所、明智日向守屋敷跡地」とある、これは明智三羽鳥安田作兵衛の屋敷で、明智光秀もたびたび訪れたという。

紺屋町は江戸期~明治22年の町名。田辺城下の1町。享保12年の丹後田辺之図による町屋は、南北105間・幅3間・家数77軒、ほかに桂林寺門前57間2尺5寸・家数16間。寛保3年には家数56軒(竹屋町文書)。延享3年には火事で37軒が焼失(竹屋町史)。という。

明治2年舞鶴町に所属。同22年舞鶴町の大字。昭和13年から舞鶴市の大字。昭和20年舞鶴市第2次建物強制疎開により、大橋~笶原神社間の建物が撤去されている。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

「神詣」さん、「丹後の地名地理・歴史資料集」さん、『延喜式の調査』さん

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