式内 網野神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社号 式内社 丹後国竹野郡 網野神社
読み:あみの
所在地 京都府京丹後市(網野町)網野789
旧地名 丹後国竹野郡網野郷
御祭神 日子坐王(ひこいますおう) 住吉大神(すみよしおおかみ)・浦嶋子神(うらしまこのかみ)
例祭日 10月9日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
竹野郡(タカノ):14座(大1座・小13座)

近代社格制度 旧府社

創建     伝:垂仁天皇の御代天湯川板挙命創祀
本殿様式   流造

境内摂社(祭神)

蚕織(こおり)神社 天照大神(あまてらすおおかみ)・和久産巣日神(わくむすびのかみ)・天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)・大宜津比賣神(おおげつひめのかみ)
愛宕神社 火産霊神(ほむすびのかみ)
早尾神社 天湯川板挙命(あめのゆかわたなのみこと)
市杵島神社 市杵嶋比女命(いちきしまひめのみこと)
立脇神社 稚産霊神(わかむすびのかみ)

一口メモ

北近畿タンゴ鉄道網野駅から市街地を国道178号線へ向かって進む。車では御陵交差点でまっすぐ府道665号線へそのまま進み右折。突き当りが神社で、その一方通行を右に行くと駐車場あり。

歴史・由緒等

「浦嶋太郎伝説」が残されている神社。

網野神社由緒

当社は{延喜式内社|えんぎしきないしゃ}であるので創立は10世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを{享徳|きょうとく}元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。
現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は{入母屋造|いりもやづくり}の{正面千鳥破風|しょうめんちどりはふ}と{軒唐破風|のきからはふ}付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。 「網野神社」

『丹後国竹野郡誌』

創立不詳網野神社の由来を尋ぬるに、垂仁天皇天下を知食御代天湯川板挙命但馬國より、當地水江に來り彼の浮べる白鳥を取り奉り鎮守と爲さんて墨ノ江水笑(ミツノエ)の松原村遠津神に御所誓ありて此水江に網を張りしにより後に水江網野とは称すと傳ふ、今網野郷細野村の西に當る湖水を村人川績海(カヅミ)と称し、東湖水を離レ池と傳ふ、東北は海濱にして北海に島なしと傳へて海中にタ日を拝するより墨ノ江とは言ひ傳ふ、東に鳥取郷鳥取村あり、元つ社地園領家は砂に埋るにより墨江浦濱に奉遷座、享徳元壬申年九月取立願主松原太夫と傳ふ、往古福田村、松原村は當社氏子也福田、松原と云ふ地今にあり、
水江浦島子神の由來を尋ぬるに、此島子が祖先より御親捕島太郎と云ふ人の家居せし地なりとて、今網野村字福田のソノと云ふ地名あり、浦島子毎日釣を楽みくらせしかぱ終に海神の都に通ひ、数年を経て帰郷せし神なり、今福田の園といふに島子の皺榎木といふあり、皺をこの榎に投け附け終に老衰して死す。

延喜式神名帳に坐す式内社。 第九代開化天皇の御子神日子坐王を奉り、住吉大神は大阪住吉大社より分霊を受け(1600年頃)浦島子神と共に鎮祭されている。
元宮は銚子山古墳に近い宮山にあり、享徳元年9月(1452年)現在地に遷座され る。
元の本社の社殿は現在の蚕織神社であるが・現在の本社は大正14年再建、昭和18 年に府社に昇格。
蚕織神社には養蚕神を宮中より分神をうけ、織物神は京都今宮神社の分霊を奉祀して いる。
境内神社は蚕織神社、早尾神社、愛宕神社、立脇神社、市杵嶋神社がある。
創建は10世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを享徳(きょうとく)元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。  現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は入母屋造(いりもやづくり)の正面千鳥破風(しょうめんちどりはふ)と軒唐破風(のきからはふ)付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。平成19年(2007年)~平成20年(2008年)、摂内社の蠶織神社(こおりじんじゃ)ともども「平成の大改修」が行われました。

日子坐王は、第九代開化天皇の皇子とされており『古事記』の中つ巻、第十代垂仁天皇の御代に日子坐王は勅命により丹波国(古くは丹後も丹波に含まれていました)に派遣されて土蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠」を誅されたとあり、また別の記録にはその後、日子坐王は丹波に留まり、国造りをなされたをなされたとあります。さらに日子坐王は網野神社の他、丹後町の竹野(たかの)神社などに祀られ、網野銚子山古墳の主ではないかと伝えられています。

蚕織神社

丹後には大川神社(舞鶴市)、籠神社(宮津市)、藤社神社(京丹後市)、木島神社(京丹後市:金刀比羅神社境内)などの養蚕神、倭文神社(舞鶴市及び与謝野町)、棚機神社(京丹後市:溝谷神社境内)などの織物神を祀まつる多くの神社があるが、近代になって奉斎されたのは蚕織神社のみである。
この蚕織神社は全国に数多くある養蚕、織物関係の社寺の中で、両神同時に祀られている珍しい神社となっている。
蚕織神社の勧請かんじょうについては、網野神社所蔵の蚕織神社由緒略記に詳しい。それによると大正14年(1925)4月、丹後縮緬同業組合竹野郡支部と竹野郡蚕糸同業組合の関係者が協議して織物と養蚕の神を奉祀することになり、竹野郡の中心地・網野町の網野神社に奉斎したものである。
時の京都府知事池田宏は精力的に郡部振興を図った人物で、知事の斡旋もあって織物神として京都紫野の今宮神社分霊を、養蚕神は宮中紅葉山の分神を勧請して合祀した。神社名は貞明皇后〔大正天皇の皇后〕が定められ、同年4月15日、網野町民、郡内織物・養蚕業者数千人が参列、行待神職が斎主となって丹後最大の機業地神社として鎮座祭を執行した。
蚕織神社の社殿は、元の網野神社の御本殿で、大正11年(1922)の網野神社本殿の新築を契機に移築された由緒あるものである。
織物神としての祭神は、天照大神(あまてらすおおかみ)と天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ:機織の祖神)、養蚕神の祭神として和久産巣日神(わくむすびのかみ:蚕と桑、穀物生育の神)と大宜津比売神(おおげつひめのかみ:穀物と養蚕の神)を祀る。なお、旧網野町史などによれば、他に呉服媛(くれはとりひめ)、穴織媛(あやはとりひめ)の二神も祭祀となっている。
時の流れとともに養蚕関係業は衰退し・現在は無くなったが、機業関係者は毎年4月の第2日曜日のちりめん祭には例祭を開催し丹後織物の発展を祈願している。

-「京都府織物・機械金属センター」-

境内・社叢

  
鳥居                        拝殿は最近改修されたようで綺麗で立派です。 拝殿・本殿


社頭掲示板

  
本殿

境内社

  
蚕織神社                     愛宕神社

丹後には大川神社(舞鶴市)、籠神社(宮津市)、藤社神社(京丹後市)、木島神社(京丹後市:金刀比羅神社境内)などの養蚕神、倭文神社(舞鶴市及び与謝野町)、棚機神社(京丹後市:溝谷神社境内)などの織物神をまつる多くの神社があるが、近代になって奉斎されたのは蚕織神社のみである。
この蚕織神社は全国に数多くある養蚕、織物関係の社寺の中で、両神同時に祀られている珍しい神社となっている。
蚕織神社の勧請かんじょうについては、網野神社所蔵の蚕織神社由緒略記に詳しい。それによると大正14年(1925)4月、丹後縮緬同業組合竹野郡支部と竹野郡蚕糸同業組合の関係者が協議して織物と養蚕の神を奉祀することになり、竹野郡の中心地・網野町の網野神社に奉斎したものである。
時の京都府知事池田宏は精力的に郡部振興を図った人物で、知事の斡旋もあって織物神として京都紫野の今宮神社分霊を、養蚕神は宮中紅葉山の分神を勧請して合祀した。神社名は貞明皇后〔大正天皇の皇后〕が定められ、同年4月15日、網野町民、郡内織物・養蚕業者数千人が参列、行待神職が斎主となって丹後最大の機業地神社として鎮座祭を執行した。
蚕織神社の社殿は、元の網野神社の御本殿で、大正11年(1922)の網野神社本殿の新築を契機に移築された由緒あるものである。
織物神としての祭神は、天照大神(あまてらすおおかみ)と天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ:機織の祖神)、養蚕神の祭神として和久産巣日神(わくむすびのかみ:蚕と桑、穀物生育の神)と大宜津比売神(おおげつひめのかみ:穀物と養蚕の神)を祀る。なお、旧網野町史などによれば、他に呉服媛(くれはとりひめ)、穴織媛(あやはとりひめ)の二神も祭祀となっている。
時の流れとともに養蚕関係業は衰退し、現在は無くなったが、機業関係者は毎年4月の第2日曜日のちりめん祭には例祭を開催し丹後織物の発展を祈願している。

-京都府織物・機械金属センター-

  
早尾神社                      愛宕神社


神馬像

地名・地誌

網野

『和名抄』 竹野郡網野郷

『丹後国竹野郡誌』

天湯川板挙命但馬國より、當地水江に來り彼の浮べる白鳥を取り奉り鎮守と爲さんて墨ノ江水笑(ミツノエ)の松原村遠津神に御所誓ありて此水江に網を張りしにより後に水江網野とは称すと傳ふ。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

「神詣」さん、他

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