式内 羽束師坐高産日神社
Contents
概 要
現社号 羽束師坐高産日神社
読み:はずかしにますたかみむすび
延喜式神名帳 式内社 山城国乙訓郡 羽束師坐高産日神社(大 月次/新甞)
読み:ハツカシニマスタカミムスヒ
所在地 京都市伏見区羽束師志水町219-1
旧地名 山城国乙訓郡羽束師村
御祭神 高皇産霊神(たかみむすびのかみ) 神皇産霊神(かみむすびのかみ)
例祭日 10月18日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
乙訓郡(オトクニ) 19座(大5座・小14座)
式内大社(大 月次/新甞)
近代社格制度 旧郷社
創建 雄略天皇二十一年
本殿様式 神明造 銅板葺
境内摂末社(祭神)
大神宮杜・八幡社・春日神社・三輪神社・籠守神社
・稲荷神社・貴船神社・西宮神社・巌島神社・愛宕神社・若王子社
羽束師稲荷社
一口メモ
JR旧乙訓郡だが、京都線の西側は向日市・長岡京、東は桂川までが京都市伏見区羽束師で、桂川東岸から宇治川に挟まれた細長いエリアが伏見区淀と横大路になる。
歴史・由緒等
延喜式神名帳に、『山城国乙訓郡 羽束師坐高御産日神社 大 月次新嘗』とある式内社で、乙訓国の筆頭に記されている。
社名は“ハツカシニマス タカミムスヒ”と訓み、古くは、波都賀志社・羽束社・羽束師社・羽束石社・羽束志宮などとも記されていた。
当社の御鎮座は、雄略天皇二十一年丁己(四七七)です。「続日本紀」大宝元年(七〇一)四月三日条に「波都賀志神等の御神稲を今より以後中臣氏に給へ」とあって、羽束師神社についてみえる最も古い記録ですが、「三代実録」貞観元年(八五九)九月八日条には、「羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉」とあり、風を鎮め、潤雨を祈願する神さまとして崇敬されていたことがうかがえます。
近年当社西方の長岡京四条四坊に当る旧址から、祈願の際献じる土馬が発掘され、話題を呼んだのは興味深いことです。 この地は桂川及び旧小畑川等諸河川の合流点に位置し、低湿地ですが、古くから農耕が行われ且、水上交通の要地という条件と相まって、「乙訓・羽束郷」(和名抄)と称し開けてきた土地です。
因に、日本書紀垂仁天皇三十九年「冬十月(中略)泊橿部等并せて十箇の品部(とものみやつこ)もて五十瓊敷皇子に賜う」と記され又、「令集解」の職員令の中には「泥部=泊橿部とは古の波都加此の伴造を云う」とあります。
何れにしても、「はつかし」と名乗る職業をもった人々の集団が、大宝令制に組み入れられる以前から、この地域に生活していたということが分かります。更に御所の野菜を供給する羽束師薗もあった処で、これらのことが、神社の発展をもたらした理由になったと考えられます。 平安初期延喜の制がととのえられるや当社は、式内大社に列せられ、月次・新嘗の幣に預かって、名実共に式内第一の社となり、「むすび」の御神威を愈々顕現され、天下豊平の加護を垂れ給うたのです。 中世・近世において、周辺地域の産土神として崇敬を集めたことは「都鄙祭事記」中の「久世、久我、古川羽束石祭四月中の巳日にて神輿二基あり。往古は、久世より下の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」という記事からも推察できます。 「大乗院寺社雑事記」文明十四年(一四八二)九月一日条に「八月二十七日二十八日、西岡羽束石祭、守菊大夫楽頭、随分得分神事也、百貫計得云々、当座ニ六十貫計懸物在之云々、盛物等大儀講也云々」とあり、祭礼には宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職となって神事能を演じた事、またこの神事は近郊に聞えた盛大なものであったらしく楽頭の得分は百貫と記されています。氏子圏の広さとその豊かさを物語っています。
「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年
境内・社叢
一ノ鳥居 社号標
ニの鳥居
鳥居扁額 「式内第一」とは乙訓郡の大社に列せられ、月次・新嘗を受ける筆頭ということ
手水舎・小祠 割拝殿
狛犬
本殿
本殿左境内社 六社(手前から)
京都・貴船神社 貴布祢大神
兵庫・西宮神社 えびす大神
京都・愛宕神社 愛宕大神
広島・厳島神社 厳島大神
京都・稲荷大社 稲荷大神
京都・若王子神社 若一王子大神
本殿右境内社 五社(から)
三重・伊勢神宮 天照皇大神
京都・石清水八幡宮 八幡大神
奈良・春日大社 春日大神
奈良・大神神社(おおみわじんじゃ) 大三輪大神
境内左末社 羽束師稲荷社
地名・地誌
羽束師(はずかし)
社頭にある「羽束師川と道標」より
久我の地から古川・樋爪・水垂・大下津・山崎を経て桂川に注ぐ本支流合わせて総延長十二粁(km)余の人工水路七間堀を羽束師川と呼んでいます。この川は桂川右岸低湿地の内水や悪水吐けの為に、文化六年(1809)から十七ヶ年の歳月をかけて新川の堀さく、古水路の改修、樋門の設置などの工事が完成しました。かくして二郡十二村の水場の人々は累代にわたる水害から免れ、荒廃した土地は耕地にかわり、その余慶は今日に及んでいます。しかるにこの工事は官府の力ではなく、神明のご加護を祈り、心身を砕き私財を投じて地域開発の素心を貫いた羽束師神社祠官で累代の社家古川吉左衛門為猛翁の独力によって成し得た大事業でありました
文政八年(1825)工事が完遂するや、羽束師神社の名を取り羽束師川と命名され、西陣伊佐町井上伝兵衛氏は為猛翁の偉業を後世に伝えんと久我畷四ツ辻にこの道標を建立されました。(以下省略)
地 図
交通アクセス・周辺情報
京阪電車中書島駅より市バス20 22系 菱川町下車50m
阪急電車長岡天神駅より府運転免許場まで阪急バス、又JR長岡京より市バス有
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
0件のコメント