式内 色来(いろく)神社
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概 要
社 号 式内 色来神社
式内社 但馬国美含郡 色來神社
読み:古 イロキ 現 いろく
江戸時代は「広滝大明神」と称していた
所在地 兵庫県豊岡市竹野町林字宮ノ谷1236-1
旧地名 但馬国美含郡竹野郷
御祭神 国狹槌命(国狭槌命)(クニノサツチ)
色来大明神『特選神名牒』
大入杵命(亦名は大色来命)『国司文書 但馬神社系譜伝』
大色来命『国司文書・但馬故事記』
大入杵命『但馬世継記』
例祭日 10月15日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
美含郡(ミクミ):12座(並小)
近代社格制度 旧村社
創建
本殿様式 流造
境内摂社(祭神) 不詳
一口メモ
県道1号線を竹野方面へ行くと林の集落を示す標識を曲がり、旧道にいた奥さんにたずねる。狭い旧道を北へ進むと小さな参道が見えた。付近の区の駐車場らしき場所に無断で留めさせてもらい、細い道の右手に石の鳥居が見えた。低い山だが、石段らしき道を木で修復された左手の谷川づたいに長い参道が続く。
歴史・由緒等
由 緒
創立年月不詳にして此地一に色来谷と称するが故に社名を生ず。延喜式の制小社に列し初め同村今林字廣瀧に鎮座せられしより一に廣瀧明神とも称し寶鏡宮寺尼宮門跡扁額を御染筆あらせらる。
元禄4年(1691)本殿を再建し明治6年(1873)10月村社に列せらる。
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇四十七代孝謙天皇の天平宝字二年(758)三月、人皇崇神天皇の皇子・大入杵命の十世孫・多遅麻国造(タジマノクニノミヤツコ)能登臣命の裔・正八位下・能登臣道麿を以って、美含郡司となす。
同三年九月、能登臣道麿は、その祖・大入杵命を土師丘に祀り、これを色来神社と申す。
境内・社叢
異説として、色来大明神・大色来命・大入杵命など。
伝承として、当社鎮座地は現社地の南西約50mの平坦地にあったらしい。
鳥居 鳥居の扁額には「色来大明神」
「式内色来神社」と刻まれた社号標
長い登山道
登れども登れども辿り着けない。午前9時ごろで夏の蒸し暑さかヤブ蚊がひつこく寄ってくる。集落に近いので大丈夫だと思いながらも、近年熊や猿鹿などの出没が多いので音に神経をとがらせながら、かなりハードな、参道というより山道登山のようだ。
ようやく鳥居が見えた。左にも鳥居があるが境内社のようだ。右手の尾根伝いに平坦な参道がある。よく中古に山頂を整地したものだと感心する。小鳥と蝉の鳴き声だけが社域に響いている。標高は200から250mくらいと低いが、この辺りでは高く見晴らしがよいので、中古は北方の轟垣屋氏の轟城も250mほどで同じ高さ。砦か狼煙台があったかも知れない。
本殿
本殿彫刻 本殿紋
金毘羅神社・熊野神社・秋葉神社・愛宕神社・稲荷神社が祀られている。
境内社 登った境内の左手、高い場所に鎮座。 参道の右手に軽四なら通れる林道があった。しばらく歩いてみたが、狭い谷川沿いに集落までの参道なのだろうか。しんどい思いで参道を登ってきた。一般車でも通行できたのだろうか。
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