式内 賀茂神社(兵庫県洲本市)
Contents
概 要
社 号 式内 賀茂神社
読み:かもじんじゃ
通称名 上加茂神社
延喜式神名帳 式内社 淡路国津名郡 賀茂神社
読み:カモ
所在地 兵庫県洲本市上加茂603
旧地名 淡路国津名郡
御祭神 別雷命(ワケイカヅチノミコト)
例祭日 10月8日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』式内社
南海道 163座 大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
淡路国 13座(大2座・小11座)
津名郡(ツナ) 9座(大1座・小8座)
近代社格制度 旧郷社
創建
本殿様式 春日造流造 檜皮葺 上にトタンをふいている
境内摂末社(祭神)
八幡神社・高良神社
一口メモ
バイパスだと思う広い県道474号線の南の旧道に大きな鳥居と社号標がある。そこから参道がまっすぐ延びている。賀茂神社とあるので京都の上賀茂か下鴨神社に関係があるのだろうと思ったが、やはり上賀茂神社からの勧請。
歴史・由緒等
賀茂神社
上賀茂神社奉斎由緒書 延長5年(西暦927年)に撰上された延喜式神明帳(巻一〇神名式下)には、淡路十三社の一として当神社名がのせられている。これは今から千年以上も前の平安の昔に、すでに有力なあらたかな神社であったことを示している。
欽明天皇の時代に日本全国が大暴風雨におそわれ田畑が壊滅に瀕したことがある。そのとき賀茂の神を奉斉せよとの神託が下り、日本六〇余州に一ヶ所づつまつることとなった。淡路では当村が神の地に選ばれ淡路の国土守護神としてここに鎮座されたのが当神社のはじまりである。祭神は賀茂別雷命と賀茂の祖神である。この神は天孫の神々の血統をひき、神武天皇とともに大和に入り、日本の国土経営に多大の貢献をなされ京都の賀茂川のほとりに鎮まり給うた神である。そのことから都が京都に移ってからも宮中では王城鎮護の神としてあつく崇敬しここのお祭りは宮中が行う勅祭として伊勢神宮に準ずる神格を与えられたほどである。
淡路においても同様に歴代の国主や領主は当神社をあつく崇拝し自から幣帛を捧げたがとりわけ江戸時代になっての蜂須賀藩主の帰依は殊の外あつく毎年神饌を供えて奉拝した。
享保の頃大暴風雨や旱害、虫害で淡路島民が大困窮に陥ったことがある。そのとき藩主綱矩公は当神社に、金燈籠壹対、米五石と金子を寄進して災害救済の大祈願をされたのである。
こうして今から約1450年前、欽明天皇によって奉斉された。この村のこの社前に藩主がうやうやしく跪まずかれ、ひたすら神助を乞い奉ったことを想起するに及んで、この賀茂の神の宏大なる神威のほどがうかがわれてかぎりなく神々しい。
明治4年に郷社に列せられ、さらに大正2年には神饌幣帛料供進神社に指定されるなどでますます氏子島民の崇拝もあつくいよいよ神威のたかきこと連綿として今日に至っている。
昭和49年4月吉日
喜寿記念として之を奉納する
神社総代 小森故一「社頭掲示板」
由 緒
創立年不詳。
欽明天皇の御代に全国に山城国の賀茂神社の神田を置いた時に、この地に神田が置かれたことにより発生した神社と伝わる。延喜式の小社に列し、中世水利権の争いにより、氏子が割れ加茂神社が洲本市下加茂に創建されたと郷土誌にみえる。
江戸時代、正徳2年(1712)に本殿を建て、徳島藩より米五石の献上があった。また、藩としての崇敬がなされ、旱害の折りには祈願がなされたと伝わり、藩主より奉納されたと伝わる金灯籠一対を有する。
戦前は郷社に列し、明治11年(1878)に本殿を改修し、社務所を建て明治26年(1893)に拝殿を新築した。その後、建物の老朽化により、昭和40年代から逐次屋根の葺き替え等を行った。
阪神淡路大震災の折りには、石灯籠等に被害がでたが復旧した。
-「兵庫県神社庁」-
境内・社叢
鳥居 社号標
社叢 注連柱
手水舎
狛犬
拝殿 拝殿から本殿
本殿
本殿左境内社 高良神社 本殿右境内社 八幡神社
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
公共 淡路交通「東桑間バス停」より北へ約1km
車 神戸淡路鳴門自動車道の洲本ICから東へ3000m
洲本川沿いに東西に走る道路脇に、安政五年の鳥居。
北へ200mの位置に、社域の杜。
参 考
「兵庫県神社庁」、「延喜式神社の調査」さん、他
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