式内 那売佐神社
Contents
概 要
社号 那売佐神社
式内社 出雲国神門郡 那賣佐神社
読み:古 ナヒメ、現在 なめさ
合祀 式内社 出雲国神門郡 同社坐和加湏西利比賣神社
通称「高倉さん」、江戸時代は「高倉大明神」と称していた
所在地 島根県出雲市東神西(じんざい)町842
旧地名 出雲国神門郡
御祭神
葦原醜男命(あしはらしこお のみこと)(大国主の別名)
配祀 須勢理姫命(すせりひめ のみこと) 大物主神(おおものぬしのかみ)
合祭
伊邪那岐命 誉田別命 息長足姫命 武内宿禰 他十五柱
例祭日 4月23日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
出雲国:大2座・小185座
神門郡(カムト):27座(並小)
『出雲国風土記』「奈売佐社」
近代社格制度 旧郷社
創建 年代不詳
本殿様式 大社造変態 栃葺
境内摂末社(祭神)
境内 伊邪那岐命社
境外社
神西八幡宮・稲荷神社・貴船神社(高岩)・貴船神社(井ノ内)
一口メモ
参考にしたデータの位置が神西八幡宮となっていてずいぶん迷った。麓という集落から湖陵町へつながる道路沿いに石段が見えた。あまりに長い石段で、他に車道がないものかと麓から反対側に登山道があるようなので、公園駐車場から山道を神西城跡付近まで歩く。神西城(じんざいじょう)と道が分かれて十楽寺まで降りてしまい、また神西城への道以外にあるような案内板だが分からず、途中まで登り、神西城の頂上まで行きそうなので断念し、元の道路沿いの石段を上がった。2百数段あると書かれている。神社巡りで石段は慣れているがさすがに疲れ何度も休憩しながら。見つけやすい式内社と当社のように道がわかりにくく、山頂付近にある式内社とは時間と労力は雲泥の差があるが、元々は自然を敬う神道のルーツを探る意味では山上に社を祀った神社が多く、制覇した達成感はひとしお大きい。神西山周辺の社という関連で、神西天満宮も付記。
歴史・由緒等
大国主命の又の名を葦原醜男命と申し上げその后神は須佐之男命の御子でこの里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫命であります。
紀元733年天平5年に編纂された出雲国風土記によれば御祭神御夫婦が仲睦しく岩坪の宮殿でお暮しになっていたとき、或る日社前の渓流が岩苔の上をなめらかに流れているのをご覧になって「滑し磐石なるかも」と仰せられた「まねしいわ」「が約って「なめさ」となり、この地方を滑狹郷と称するようになった記録があります。
又これより約200年後の、延喜式神名帳に当社は神祇官に登録してある神門郡二十七座の内にあり、これを式内社といいます。
享保年間の雲陽誌は高倉明神とあり高倉山に鎮座せられているところから通称「高倉さん」とも称し、明治5年には社格郷社に列せられるなど洵に由緒深い神社であります。「社頭掲示板」
『出雲国風土記』神門郡条に在神祇官社の「奈賣佐社」と「那賣佐社」の2社が記載されている。『延喜式神名帳』出雲国神門郡には「那賣佐神社[1]」と「同社坐和加須西利比売神社」の2社の記載があり、この時点ですでに2つの「ナメサ社」が合祀されていたと考えられる。
天和3年(1683年)に成立した『出雲風土記鈔』には俗に「岩坪大明神」と呼ばれていると記されている。享保2年(1717年)に成立した『雲陽誌』には「高倉明神」という社名で俗に「岩坪明神」と呼ぶと記載されている。永禄5年(1562年)の当社の棟札から室町時代後期にはすでに旧社地の岩坪(後述)から現社地に移転していたものとみられる。『雲陽誌』にはまた「波加佐社奈売佐社あり」と記載されていることから、『出雲国風土記』不在神祇官社の「波加佐社」の一つを合祀したとも考えられる。
明治5年(1872年)に近代社格制度における郷社に認定された。
(ウィキペディア)
境内・社叢
鳥居 社号標
標柱・案内板 神西城址・那賣佐神社(高倉山)
社頭掲示板
道路から数えて二の鳥居 石段が230段あると書かれている
石段 手水鉢
拝殿 拝殿扁額
本殿 境内社 伊邪那岐命社
本殿左手に神西城登山口
■境外社
「岩坪」岩坪明神
神西天満宮
東神西町中組にある。貞応2年(1223年)に小野高通が地頭として神西村に赴任してきた翌年に氏神である鶴岡八幡宮の分霊を勧請してきたものとされる。江戸時代までは最大2町7反あまりの社領を持ち、12か村の氏神となるほどの神社であったが、明治維新のときに無格社に列格され、明治43年(1910年)に境内社であった小野神社、稲荷神社、金刀比羅神社とともに当社に合祀された。(ウィキペディア)
社頭掲示板 本殿覆屋
境内社
地名・地誌
神西城(じんざいじょう)
別名 龍王山,竹生城,高倉城
山城(101m/90m)
築城年代は定かではない。貞応2年(1223年)小野高通が相模国鎌倉から地頭職として下向した。このときに城が築かれたかどうかは定かではないが、小野氏ははじめ古荘氏、ついで神西氏を称し、以後十二代続いた。
神西三郎左衛門元通は尼子氏の重臣となり、尼子十旗の一つに数えられた。しかし、永禄年間(1558年~1570年)に毛利氏が出雲に侵攻して尼子氏が滅亡すると、元通は毛利氏に降った。毛利に忠勤を励んだ元通は伯耆国末石城主となっていたが、永禄12年(1569年)尼子勝久を担いだ尼子再興軍が決起すると、元通もこれに加わり、最後まで従って播磨国上月城で勝久とともに自刃している。
「城郭放浪記」さんより引用
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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