式内 阿良須神社(舞鶴市小倉)

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 式内社 丹後国加佐郡 阿良須神社(論社)
読み 古 アラス、現 あらす
所在地 京都府舞鶴市小倉字フル宮13
旧地名 丹後国加佐郡志楽郷(和名抄)
御祭神 豊受大神(とようけのおおみかみ)
相殿神、多岐都姫命、イチキシマヒメ、多紀理姫命、三座、
木花咲夜姫命(殿内秘座二宮神)

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
加佐郡(カサ):11座(大1座・小10座)
式内社

近代社格制度 旧郷社

阿良須神社論社
阿良須神社 京都府福知山市大江町北有路高畑461
阿良須神社 京都府舞鶴市小倉13

(旧社名及別称) 柳原宮、大森宮、一宮、豊受阿良須神社
江戸時代は「春日部一宮」「一宮大明神」「大森明神」と称していた

創建
本殿様式

境内摂社(祭神)

神明神社(御祭神 天照皇大御神
配神 金刀比羅大神・北野天満大神)

二柱神社(御祭神 天児屋根命 誉田別尊)

桜王神社(御祭神 桜大刀自命)

文化財

阿良須神社文書 府登録有形文化財

一口メモ

国道175号線(旧宮津街道)大雲橋北(交差点)から南に入ったすぐに鎮座する。大江町内では唯一の式内社である。
高速舞鶴東ICを府道28号線に入る。小倉(交差点)を右折して、丹後街道/国道27号線 に入る。阿良須神社は舞鶴市の東部、志楽川を遡った中流域・小倉に鎮座する神社。志楽小学校の南側の森のある所である。国道27号線脇で車からも見える。普通は一宮と呼んでいる。
当社を加佐郡式内社の阿良須神社に比定する説もある。会館(元志楽村役場)前に止めさせていただいたが、国道を横断するのは危険である。

歴史・由緒等

当社は崇神天皇の御代(前97~前30)四道将軍の一人丹波道主王が青葉山の凶賊 蜘蛛征伐に当たり豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りしたのを創祀とする。
白鳳10年9月3日柳原の地に社殿を造営し、同11年越前阿良須波の里に忍び給う 高市皇子の社参をみた。
かってこの地は日下村と云い、後に春日部村と称するようになった。
吉野朝以降領主の尊崇篤く、観応元年政所より神田5段、寛正3年にも代官より神田1段が寄進された。

慶長5年、丹波福知山の城主小野木某の兵火に罹り社殿悉く消失し、翌年領主細川忠 興が現在の布留山の地に遷宮した。
現在の本殿は一間社流造・銅板茸、文化12年の再建になる。旧郷社で府登録文化財 等の古文書を有す。

-「社頭掲示板」-

『丹後風土記残欠』に、有道郷 本字蟻道。
阿良須は蟻道・蟻巣で、有道と書き、今は有路と書く。
昆虫の蟻が穴の道を掘っていくように、鉱山師たちがここで蟻の道を掘っていた、よって有道・蟻巣だというのである。
『国司文書・但馬故事記』にも蟻道が登場する。人皇十代崇神天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊、陸耳の御笠、群盗を集め民物を掠奪す。これを天皇は彦坐王に退治を命じ、南へ逃げる賊を、蟻道川岸に至り、土蜘蛛匹女を殺す。その血が流れて血に染みて紅なり。ゆえにその血を血原と云う(のち千原と改む)

当社の社名は越前阿良須波から由来しているようだ。
これに対し、福知山市大江町北有路の同名社は『丹後風土記残欠』では、地名にちなんで蟻巣が訛って阿良須となったと記される。

残欠では志楽には名がまったく見えず、大江町有道(ありぢ・有路)郷に蟻巣が訛って阿良須となったと記される。しかし『国司文書・但馬故事記』に、“天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅により田庭の真名井原に降り、豊受姫命(豊受大神)より五穀蚕桑の種子を得て、実ったことを豊受姫命が見て大いに歓び「これを田庭に植えなさい」という。のちに豊受姫命は天熊人命とともに田作りの仕事を補佐して、のちに高天原に上った。故にここを田庭と云う。丹波の号ここに始まる。その後天火明命は五穀蚕桑の道を諸国に起こし大いに蒼生となる。
この時、国作大巳貴命・スクナヒコナ命・ウカノミタマ命は諸国を巡り視て、高志国もとどまり、{天火明命|あめのほあかり}を召して{曰{のたま}わく、「汝命、この国を領き知べし」と。天火明命は大いに歓んで曰く、「永世なり。青雲志楽国」と。
故れその地を名付けて志楽国という。”
とあることから、志楽国つまり当社の志楽が田庭の起こりではないかと思われ、のちの彦坐命の子、四道将軍、丹波道主命の本拠があったのではないかとも思われるので、志楽に丹波道主命が神社を祀ったのも不思議ではない。延喜式のころ、どちらが式内社に選定されたかは不明だが、福知山市大江町北有路が社名の場所であり、志楽は拠点であるし、どちらも論社を主張する理由はあるようだ。

境内・社叢

  
社叢

  
社号標                       鳥居扁額

  
拝殿                        本殿

  
境内社

布留山神社

  

冨留山神社、布留山とも書かれる、フル山、フルヤマはこの神社の鎮座地の山のことである。残欠に大倉木社。あるいは布留社だろうという説もある。「室尾山観音寺神名帳」の正三位 大倉明神、あるいは正二位の布留明神だとも言われる。

布留社・布留明神は由良川筋にあったと思われ、ここではないと思う。

地名・地誌

志楽(しらく)

和名抄の「志楽郷」は広く、現在の志楽谷・朝来谷・河辺谷に大浦半島が含まれたと見られている。
中世の志楽庄は現在の志楽谷と朝来谷、河辺谷を含んでいた。志楽庄春日部村が現在の志楽にあたる。
江戸期の志楽庄は志楽谷とさらに祖母谷・与保呂谷・森、行永を含み、森・行永・与保呂上・与保呂下・溝尻・堂奥・多門院・浜・市場・泉源寺・田中・安岡・小倉・鹿原・吉坂・松尾の16か村を総称する。
明治22年~昭和13年の加佐郡志楽村は、泉源寺・田中・安岡・小倉・鹿原・吉坂・松尾・市場の8か村が合併して成立した。旧村名を継承した8大字を編成し役場は小倉に設置させた。明治39年市場全域と泉源寺の一部が分離して新舞鶴町の大字となり、当村は6大字となる。
明治42年志楽尋常小学校が設立された。大正11年国鉄小浜線が開通し、松尾寺駅が設置された。

小倉

舞鶴市の東部。志楽谷の中ほど中心部。志楽小学校のあたり。『加佐郡誌』によれば、地名の由来は,往古小倉木王の領地であったことによるという。丘陵端古墳、斜面に窯跡がある。志楽(シラク)は新羅系渡来人末裔であろうと推測できる。

ここは阿良須神社の鎮座地であるが、舞鶴市東部と由良川筋の大江町北有路には同名の神社があり、枯木という地名もあり、また十倉神社とも呼ばれたようにここではtokuraのTが脱落しokuraとしたものかも知れない。伝説では同じ日本得魂命が活躍した地である。両地には何か関係があったと推測されるのである。

地 図

参 考

「神詣」さん、「丹後の地名地理・歴史資料集」さん、『延喜式の調査』さん

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