式内 飯道神社(宮町)
Contents
概 要
社 号 飯道神社
読 み はんどうじんじゃ
式内社 近江国甲賀郡 飯道神社
別 名 江戸時代は「飯道明神」
所在地 滋賀県甲賀市信楽町宮町7
御祭神
〔配祀神〕大倭根子天皇(孝霊天皇) 岐神 菊理媛神
御神紋 菊花
例祭日 5月 5日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
東山道 式内社382座 大42(うち預月次新嘗5) 小340
近江国 155座 大 13座 小 142座
甲賀郡 8座 大2座 小6座
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 三間社入母屋造正面千鳥唐破風付 間口三間 奥行三間(重文)
境内摂末社(祭神)
厳島神社 (境外) 岩尾神社 八幡神社
文化財
本殿 三間社入母屋造正面千鳥唐破風付 間口三間 奥行三間(国重文)
一口メモ
新名神信楽ICを降りて県道53号線を北へ進む。ゴルフ場手前で飯道神社の鳥居を右折。しばらく行くと飯道神社登り口。その少し手前で斜め右に坂を登ると展望台と駐車場がある。車はここまで。木の階段を登ると、そこからは険しい山道で、直線距離で260m。周囲に巨石が多い。早朝京都市右京区の総本山愛宕神社を登ったのできつい。何度も休みながらようやく鳥居。軽トラックが2台泊まっている。本殿は改修工事でその職人さんの車。国道307号線から車道があるのは知っていたが、許可者以外は使用不能。工事用シートで本殿が見られず残念。
歴史・由緒等
当初飯道山山頂(664m)に鎮座していた。後に出来た飯道寺の境内地である現在の地に遷宮。
寛平九年金勝山大菩提寺に弁分度者二名の試度を許す太政官符に当社が見られ、式内甲賀郡八座の一である。平安時代中頃僧安皎は五院を創立、後分れて三十六院となり、本社を飯道権現と称した。元慶八年従五位上より従四位下に叙せたられ久安二年近衛天皇より飯道権現の勅額を下賜された。天正九年織田信長征戦の途次登山、社領二〇〇石を寄進、以後徳川時代は代々社領として二〇〇石を安堵され明治に至った。
本社は平安時代より神仏習合の聖地として民衆の崇敬篤く、殊に修験道場として隆盛を極めた。
本殿は慶安二年の再建で、桃山様式の極彩色を施し、昭和五十一年より解体修理を行った。「滋賀県神社庁」
飯道神社は神体山の信仰から始まって、延喜式神名帳に甲賀郡内八座の一つとして記載されている古社である。祭神は伊弉册尊・速玉男尊・事解男を祀る。
現在の本殿は慶安3年(1650)に建てられ、形式は間口三間、奥行三間に向拝を付け建物周囲に裳階を付けた大きな本殿である。屋根は人母屋造であるが正面に千鳥破風をつけ、その下方に向拝の軒唐破風が取り付く変化に富んだ外観を示す。蟇股や手挟などの彫刻は写実性に富み、建物の仕上げに漆や丹を塗り、組物や虹梁などには極彩色で飾つた江戸時代前期を代表する華やかな本殿である。昭和63年3月 「滋賀県教育委員会」
飯道神社本殿
重要文化財 飯道神社本殿
飯道神社は、神体山の信仰から発して神社社殿の建立に進展したものと考えられるが、延喜式神名帳にも甲賀郡内八座の一つと して名を並べ、三代実録には元慶8年(西暦884年)に従四位下の格に上ったと伝えられる。飯道寺の隆盛と神仏習合思想により、長い間飯道寺と一体になってまつられてきたが、神仏分離令以後寺は廃絶し、山上に残る古建築は本殿のみとなった。
現在の本殿は、建物の部材に記された墨書により、慶安3年 (1650)に再建されたことが明らかで、桁行三間、梁間三間の屋根を入母屋造とし、正面三間の向拝は縋破風の軒に作り屋根正面に千鳥破風を、向拝には軒唐破風をつけた変化に富んだ構造である。内々陣を素木とする以外は、丹・漆塗り、金箔押し及び極彩色を施し、飾金具を散りばめた華麗なもので蟇股や手挟などの彫刻は江戸時代初期の技法で写実性をもっている。正側面の庇や背面の囲いは、本殿を保護するための施設であるが、昭和50年から同53年にかけて 行った解体修理工事中の調査により、現本殿建築当時から設けられたものであることが立証された。昭和53年9月30日 「滋賀県教育委員会」
境内・社叢
一の鳥居 二の鳥居(参道入口)
展望台からの登山口 巨岩が多い
地蔵宿という案内板 手水と井戸のような囲い
弁天堂 三の鳥居 ようやくゴールが見えてきた
鏡の大岩 行者堂 きつい参道を登り切ったのに軽トラックがあるのでショック?!
工事中の仮本殿となっている祭器庫 拝殿
境内案内板
狛犬
本殿両脇の石灯籠
本殿左手にも巨岩
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