式内 高藏神社
Contents
概 要
社号 式内社 丹波国何鹿郡 高藏神社
読み: 古 タカクラ、現 たかくら
江戸時代は「大藏大明神」「高倉大明神」
所在地 京都府綾部市西坂町宮ケ嶽21
旧地名 丹波国何鹿郡物部郷
御祭神 建内宿禰(たけうちのすくね)
例祭日 10月16-17日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
大37座(就中一座月次新嘗)小523座
丹波国(タンバ):71座(大5座・小66座)
何鹿郡(イカルカ):12座 並小
近代社格制度 旧村社
創建
本殿様式
境内摂社(祭神)
一口メモ
先週の綾部市の式内社で唯一残っていた。福知山市大江町の熊野神社(丹後国式内 三宅神社論社)から京都府舞鶴市桑飼下の丹後国式内 伊知布西神社をもう一度写真を撮りに行ってから、府道9号線へ入り低めの峠を越えると綾部市。綾部市西坂町は二度目のルートだ。宮床から南の高倉という集落の中に神社の杜らしき場所が見える。
綾部市の同神社周辺の物部地区には高蔵神社が多い。他にも綾部市高倉町奥路の高倉神社は、延喜式以降の式外社だが大きな神社。関係があるのかは分からない。
歴史・由緒等
創立 再建等 不詳なれども延喜以前の創祀と考えられる。
往古より宮ヶ嶽の頂上に祀りしを中古現在地に遷し祀りしものなると言う。
毎年の国司役人の参詣の際急峻のために度々落馬することなどもあり。この地に遷し祀ったとも云い伝えられている。「社頭掲示板」
社頭掲示板より
物部村誌には、大字西坂小字宮ヶ嶽に鎮座、祭神は武内宿禰であって年月は不詳であるが共延喜以前の創設である。初めは宮ヶ嶽の頂上に祭ってあったのを中古現地に遷し祭ったものであるという。物部村宛の指令は次のとおりである。何鹿郡第三区西坂村「其村鎮座高蔵神社延喜式内に相違無之今般詮議決定候条此旨相達候事」明治10年6月京都府とあり、社名(号)については、「新訂増補国史大系延喜式」には、高蔵神社(タカクラカミノヤシロ・タカクラカムヤシロ)の二種類乃訓がつけられており、中院家本には「高蔵神社」と訓は空白となっている。社名のいわれはわからないが、今も小字名に「高倉」があり、律令制時代にここに食料などを保管する高蔵が建立されていたのか、その由緒から社名がつけられたものと思われる。今の御社殿は、南方に聳える宮ヶ嶽の麓に東面して建つ。本社の本殿は、棟札から、享保14年(1729年)九月吉辰に建立されているが、これは多分再々建であろうと考えられる。当社の特異神事として社伝記録に「源頼光が大江山の鬼退治の際、大江山山系が一望できるこの高蔵神社に参詣し、諸願成就の上は再度参拝すると祈宣し、その前兆として、鬼射の神事を執り行ったと云う。今にこの神事が3月28日の脇宮、八幡宮社の例祭りの日に神事として執行されている。それは、長さ一尺幅三寸の薄い杉板の1枚に、鬼の字を書き、別の1枚の杉板には、左馬の字を書き、各々を庭中に建てた的の上につるし置き氏子中の両親がそろった3人の男子児童が半弓を以て先に鬼の字を次に左馬の字を射抜かしむ。」(社伝記録文書より)とある。
「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年
境内・社叢
社頭掲示板
鳥居 鳥居扁額
本殿覆屋
狛犬
左境内社 若宮神社 右境内社 八幡宮
稲荷神社、厄除神社と大山祇神社 鳥居左脇境内社・手水舎
地名・地誌
地図
交通アクセス・周辺情報
参 考
『延喜式の調査』さん、他
0件のコメント