式内 売布神社(松江市)
Contents
概 要
社 号 賣布神社
読み: 古 ヒメフ、現 めふ
所在地 島根県松江市和多見町81
旧地名 出雲国意宇郡山代郷
御祭神
速秋津比賣神(はやあきつひのみこと)
配 五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命
例祭日 10月10日
社格等
『出雲国風土記』 天平5年(733)2月30日「賣布社」
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国:187座 大2小185
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
式内社
近代社格制度 旧県社
出雲国神仏霊場六番(20社寺)
創建
本殿様式
境内摂末社(祭神)
本殿後方左、金刀比羅神社(大名牟遅命・少彦名命)
右、船霊神社(表筒男命・中筒男命・底筒男命)
本殿右側 白潟地主総荒神(速秋津比古神・素盞嗚尊)
常光神社
本殿左側 和田津見社(櫛八玉神・豊玉彦神・豊玉姫神)
拝殿右側 恵美須社(大国主命・事代主命)
一口メモ
松江市街ど真ん中にある式内社。宍道湖から中海に注ぐ大橋川によって市街地は南北に二分され、松江城北側が橋北(きょうほく)、南側が橋南(きょうなん)と呼ばれる。松江駅から左折して県道22号線を600m。朝日町(交差点)を右折して県道21号線 に入る。駐車場はないので神社の前の道は狭いが止めて急いで参拝。
今回は他の目的で松江に来ていたので、意宇六社や佐太神社、美保神社、以外の松江市の式内社は当社のみとなった。
歴史・由緒等
ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメは、日本神話に登場する神である。『古事記』では速秋津比古神・速秋津比売神、『日本書紀』では速秋津日命(はやあきつひのみこと)と表記される。古事記では別名「水戸神(みなとのかみ)」と記している。
「水戸神」とはすなわち港の神の意味である。古代の港は河口に作られるものであったので、水戸神は河口の神でもある。川に穢を流す意味から、祓除の神ともされる。神名の「ハヤ」は川や潮の流れの速さを示し、かつ、河口の利用は潮の流れの速さに左右されることから出た神名とみられている。また、「アキツ」は「明津」で、禊によって速やかに明く清まるの意とする解釈もある。
賣布神社略記
当社は出雲風土記に賣布の社、延喜式神名帳に賣布神社と列記され、社記及び世人に は白潟大明神、或は橋姫大明神とも称されてきた社であります。主祭神=速秋津比売 神の御鎮座は、神代においてその御孫神の櫛八玉神が御祖神として、又海河港湾の守護神としてお祭り祈願なされたのに始まっています。
境内摂社=和田津見社(海の若宮、漁宮ともいう)には、古来当社の古伝祭の神事等、この神の御事蹟に縁がありま す。又、本殿合殿の三神は第20代安康天皇御宇2年秋八月朔日勧請と旧社記にあり ます。当社は古来意宇郡松江村の氏神様で白潟大明神と申すのは往古この一帯は海であったが、次第には白砂が積って潟地形が出来たという意によってか、地名を白潟と 名づけ、いつの頃よりか地名を冠して白潟大明神とも称え奉るに至り、当社の御神徳 の発展と共にこの地いよいよ拓けたのであります。又、松江は湖川をはさんで南北にわかれ、古くは白潟と末次の往来は舟を用い、不便であったのを御神託により橋が架けられた為、人々はこれを喜び、橋の守護神としても尊崇し橋姫大明神とも称したのであります。古来、国主より累代特別の御崇敬がありましたので、神領、宝物等の御寄附が少なくありません。文禄年間には豊臣秀吉の立願により社殿を改造されたこともあります。
境内・社叢
鳥居と神門 拝殿
手水舎 本殿
本殿奥の境内社二社 拝殿東の境内社
地名・地誌
島根県の県庁所在地である松江市は、人口20万人の山陰一の都市で(鳥取市の合併により僅差で二位になった)、日本海側気候であり、冬は曇りや雨、雪の日が多い。ただし、大陸からの距離が比較的近く、他の日本海側の地方と比べて気温が高いことから、積雪量はそれほど多くはない(松江市をはじめ島根県の日本海沿岸部は、豪雪地帯には指定されていない)。春から秋にかけては比較的好天の日が多い。室町時代は出雲守護を代々継承した京極家の守護所が置かれた。戦国時代には京極家分家の尼子家(安来市)が台頭したため支配下におかれる。
本格的に開発が進んだのは、堀尾吉晴が1607年 – 1611年の足かけ5年をかけて松江城及びその城下町の建設を行って以降のことである。1634年(寛永11年)京極忠高が若狭小浜藩より転封となり松江藩主となる。城下は近世都市として整備され山陰の都として栄えた。
江戸時代中期以降は親藩松平家(松江藩)の城下町として盛える。中でも有名な藩主が、「松平不昧公」の異名を持つ松平治郷である。
明治時代になると、松江は島根県の県庁所在地となった。小泉八雲が訪れたのもこの時代である。
大橋川から南は明治まで意宇郡山代郷だった。
0件のコメント