式内大 宗我坐宗我都比古神社
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概 要
社 号 宗我坐宗我都比古神社
式内社 大和国高市郡 宗我坐宗我都比古神社 二座(並大 月次/新嘗)
読み:古 ソカノ、現 そがにますそがつひこ
江戸時代 「蘇我大神宮」
所在地 奈良県橿原市曽我町1196
旧地名 大和国高市郡
御祭神
宗我都比古神(そがつひこのかみ) 宗我都比売神(そがつひめのかみ)
『五郡神社記』武内宿禰 石川麻呂
祭礼 10月6日 例祭
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
大和国:286座
大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)
高市郡(タケチ):54座(大33座・小21座)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳(蘇我馬子が創建したという)
本殿様式 流造
境内摂末社(祭神)
稲荷社・戎神社・八阪神社
一口メモ
『延喜式神名帳』記載の全国の式内社2861社(3132座)で大和国式内社は最多の286座、216社を有する。約一割が大和国にある。しかもその大和国のなかでも群を抜いているのが旧高市郡で54座、33社もある。神社信仰のメッカ(聖地)なのである。曽我といえば、あの神仏宗教戦争で崇仏派の蘇我氏が朝廷の祭祀(神祀)を任されていた物部氏を滅ぼしたはずの蘇我氏の本拠地だった地名で、有名スターに会えたような感動と重みを感じてしまう。しかし不思議なことに高市郡が大和国でも他を圧倒して最も神社が集中するのである。
当社はその蘇我氏の氏神。近鉄真菅駅すぐそばの市街地にあるが、近鉄開通前は数戸の集落だったそうである。
歴史・由緒等
「延喜式神社の調査」さんから
由緒概要
曽我は古名を蘇我と記し8代孝元天皇の御子彦太忍信命の孫に当る武内宿祢の第三子石川宿祢が蘇我の大家を賜わって大阪河内から移り住みこのために姓を蘇我と改めたという。33代推古天皇の御代になって石川宿祢五世蘇我馬子宿祢がここに社殿を造って始祖石川宿祢夫妻をお祀りしたと伝えられ凡そ千三百数十年前で当神社の起源とされる。
蘇我氏の氏祖を祀る当社は古くから曽我の近郊の人たちから「曽我さん」という愛称で広く親しまれている。
一、祭祀
祭儀は2月22日の祈年祭、10月6日の御例祭、11月26日の新嘗祭がある。この御例祭のときと、境内社の稲荷神社初午祭(3月初め午の日)のときに御供(餅)撒き行事が行なわれる。秋季祭は10月10日より17日まで宮座四座の各当家宅で小神輿を祀り、17日の宵宮祭には大神輿によって御神体を曽我町集落内の御旅所(飛地境内)まで1.3Kmを渡御する。神職は終夜御神体を衛り翌18日神社に還幸せられる。尚御旅所への神輿渡御だけは昭和37年以降廃止されている。また、2月13日の御田祭オンダマツリ(お田植式)には拝殿前左右の箱組の砂囲いの擬田に稲苗(早苗)になぞらえた松葉(お正月用門松)を植えてその年の豊作を祈念する神事がある。
尚前記の宮座中講は宗我座、神町座、宮座、宮元座の四座があり、氏子戸数184をかぞえる。
一、境内地、その他
神域は約三千坪で、この地は中曽司遺跡の中心にあり周辺の田畑から土器や石器等が出土したことより弥生時代から古代人が住みつき飛鳥時代にこの曽我を根拠地として蘇我氏が勢力を伸ばした地であり以後、奈良・平安時代には大和国曽我庄といわれ皇室領の荘園であった。旧高市郡真菅村大字曽我の旧村落から北北西約1Kmの位置にあり近畿日本鉄道開通当時(大正14年)以降駅周辺に数戸の人家があったが昭和36年には神社前に十数戸の新興団地が出来て以来、真菅駅を中心に数千戸にまで急増しています。
神社入口には昭和3年11月御大典記念の神明造り石鳥居があり、その横に社名標石があり、その背後に制札がある。尚社地内には百度石「元禄7年(1694年)」銘、拝殿前「蘇我大神宮明和8年(1771年)9月吉日藤井氏神町座中」の銘をはじめとして灯篭が七対と一基(内一対は稲荷神社前)あり、拝殿前及び本殿前にそれぞれ一対の狛犬がある。
一、社殿等、施設
社壇上に東面して鎮座する本殿は白木流造り千鳥破風付、檜皮葺で、周囲を土塀白壁塀で囲まれている。尚本殿と拝殿の中間に中門、透塀木造銅板葺、拝殿は単層切妻造り瓦葺である。拝殿の南側には太鼓台、絵馬、神具などを収納する格納庫、大小神輿を収納する収納殿がある。
また参道入口近くに手水舎があり、拝殿前右側に石玉垣を囲んで祓所あり、更に境内の北側に石鳥居一基(中原朝臣多賀高智、献備、慶応三歳二月)と朱塗木造鳥居四基が並ぶ参道の奥に稲荷神社があり、同社に向って左側に戎神社(大国主命事代主命を祀る)と、右側には八阪神社(祭神は素盞嗚命)と三神社の祠がある。
「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年
境内・社叢
鳥居 社号標
手水舎
狛犬
拝殿 拝殿内
本殿 境内社 八大夫稲荷社と左右に戎社・八坂社
地名・地誌
曽我(そが)
古墳時代から飛鳥時代(6世紀 – 7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族である。『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としている。具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては以下の諸説がありよく分かっていない。
河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族。6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われている。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代以後、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもうかがわれる。
稲目の代になると、過去に大臣を出していた葛城氏や平群氏は既に本宗家の滅亡により勢いをなくしており、蘇我氏は大連の大伴氏と物部氏にならぶ三大勢力の一角となり、やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力となる。
地 図
交通アクセス・周辺情報
近鉄大阪線真菅駅下車西南100m
参 考
「延喜式神社の調査」さん、「大和路アーカイブ 奈良県観光情報」、他
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