忌部神社(式内 久多彌神社)
Contents
概 要
社 号 忌部神社
読み:いんべ
平安期 二十二社総権現、総社大宮大明神
明治末までは「大宮神社」
所在地 島根県松江市東忌部町957
旧地名 出雲国意宇郡忌部村
『出雲国風土記』意宇郡忌部神戸
御祭神
天照大御神(あまてらすおおみかみ) 天太玉神(あめのふとだまのかみ) 天兒屋根神(あめのこやねのかみ)
配祀
大穴牟遲神 事代主神 味耜高彦根神 天御梶姫神 素盞嗚神
国常立尊 国狹槌尊 豊斟渟尊 泥土煮尊 沙土煮尊 大戸之地尊
大苫邊尊 面足尊 惶根尊 伊弉册尊 正哉吾勝勝速日天忍穗耳命
天津彦火能瓊瓊杵命 彦火火出見命 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命
事解男神 速玉男神
合祀 式内社 出雲国意宇郡 久多彌神社
御祭神 大穴牟遲神
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国:大2座・小185座
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
近代社格制度 旧郷社
社格制度廃止後 島根県神社庁特別神社
創建
本殿様式
例祭日 例祭 10月19日
境内摂末社(祭神)
文化財
上代玉作関係遺物 松江市文化財
忌部神戸において作られていたと考えられる勾玉や管玉およびそれらの生産に使われた砥石など
一口メモ
式内 久多美神社から県道24号線「神仏の通ひ路」を忌部神社に隣接する忌部小学校へ。校門まで行ったのだが神社への行き方が分からず、県道へ戻り鳥居と長い参道を見つけた。参拝してから知ったが、車で小学校沿いの道(校内通路だと思っていた)から行けるのだ。まあ昔の人はそんな横着なことを考えず参道を歩いて石段を登ったのだから、正式な参拝である。しかし石段はきつかった。
歴史・由緒等
忌部神社御由緒
御祭神 天太玉命 天照大御神 天児屋根命 外二十二神
御例祭日 10月19日
當社は明治末年まで大宮神社と称し、祭祀の祖神天太玉命を主祭神とし、天照大御神は御霊現により出雲国日御崎神社より、天児屋根命は榮国利民のため大和国春日大社より勧請し奉斎せり。
平安朝に忌部神戸内鎮座の二十二社を合祀し、二十二社総権現、総社大宮大明神と称し、忌部神戸の総社として神祇令により神戸内の官物を供進し其官祭を享け給へり。
奈良朝以来朝廷の御崇敬を初め累代国守の崇敬篤く、社領寄進、社殿造営、禁制、社参代参あり藩主松平綱近は御供田一反九畝三歩を寄進せり。
明治44年其筋の指示に基き一村一社として降保親睦の實行を期するため、式内村社久多美神社(御祭神 大穴穿遲神外三神)無格社山智神社(御祭神 事解男神外一神)無格社七次神社(御祭神 国常立尊外十四神)無格社素鵞神社(御祭神 素盞鳴命)を合祀して社名を忌部神社と改称し、神域の擴張、社殿の整備を行い、昭和6年10月郷社に昇格。同50年7月島根県神社庁特別神社に指定される。「社頭掲示板」
-「延喜式神社の調査」さん-
天太玉命を主祭神とし、日御碕神社から勧請したとされる天照大御神と春日大社から勧請したとされる天児屋根命を配神として、その他22柱をあわせて祀っている。
『日本の神々(7)山陰』によれば、
鎮座地のある地域は『出雲国風土記』意宇郡条に記載された忌部神戸に属していた。当社に残された古記録によると、かつては三社大宮大明神と呼ばれ忌部地域の中心的な神社であったが、平安時代末期ごろから総社大宮三所大明神と呼ばれ郷内の総鎮守となったとされる。また同地域には式内社の久多美神社も鎮座しており、中世に大宮の末社になったと考えられる[2]。
明治44年(1911年)の神社合祀政策によって大宮神社が村社久多美神社、無格社素鵞神社、七次神社、山智神社を合祀して新たに村社忌部神社として設立された[3]。昭和6年(1931年)に郷社に昇格した。
境内・社叢
鳥居・社号標
参道入口狛犬
参道 随神門
境内狛犬
拝殿 出雲ならではの太い注連縄
拝殿扁額 本殿
境内社
地名・地誌
忌部(いんべ)
『出雲国風土記』では意宇郡の郷名は郷はなく忌部神戸。郡内には神戸が三箇所あり、他は出雲神戸(松江市熊野大社周辺)、賀茂神戸(安来市安田当たり)。
ウィキペディアによると、
忌部氏(いんべうじ/し、のち斎部氏)は、「忌部(斎部)」を氏とする氏族。
天太玉命を祖とする神別(天神)の古代氏族で、「忌部首」、「忌部連」、「忌部宿禰」のち「斎部宿禰」姓を称した。古代朝廷における祭祀を担った氏族である。
古代日本には各地に部民としての「忌部」が設けられていたが、狭義にはそれらを率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含める。
中央氏族としての忌部氏は、記紀の天岩戸神話にも現れる天太玉命を祖とする。現在の名神大 天太玉命神社のある奈良県橿原市忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて中臣氏とともに古くから朝廷の祭祀を司った。しかしながら、勢力を増す中臣氏に奈良時代頃から押され始め、固有の職掌にも就けない事態が増加した。平安時代前期には、名を「斎部」と改めたのち、斎部広成により『古語拾遺』が著され上書された。しかしその後も状況は変わらず、中臣氏のみが栄えることとなった。
朝廷の品部としての「忌部」は、出雲・紀伊・阿波・讃岐が代表的なものとして明らかとなっている。
出雲忌部(玉作氏)
地域:出雲国 – 現在の島根県松江市東忌部町・西忌部町周辺
祖神:櫛明玉命 – 忌部五部神
職掌:玉の貢納
関係地
忌部神社(島根県松江市)ここ。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「延喜式神社の調査」さん、
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