播磨国一宮・名神大 伊和神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社 号 播磨国一宮 伊和神社
読み 古 イワニイマスオホナモチミタマ 現 いわ
播磨国宍粟郡 伊和坐大名持御魂神社
所在地 兵庫県宍粟市一宮町須行名407
旧地名 播磨国宍粟郡

御祭神
伊和大神=大己貴神(おおなむちのみこと)
配祀 少彦名神 下照姫神(大己貴神)
例祭日 10月15日・16日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陽道 式内社140座 大16(うち預月次新嘗4)・小124
播磨国(ハリマ) 式内社50座(大7座・小43座)
宍粟郡(シサハ・しそう) 7座(大1座・小6座)
式内社 (名神大)

中世社格制度  播磨国一宮
近代社格制度  旧国幣中社
社格制度廃止後 別表神社

創建     成務天皇甲申年(社記)創祀、欽明天皇25年創建
本殿様式   入母屋造 檜皮葺

境内摂末社(祭神)

五柱社 天照皇大神・宇賀魂神・国底立神・須佐之男神・猿田彦神
市杵島姫神社(通称・弁天さん) 市杵島姫命
播磨十六郡神社 播磨国内の式内社
御霊殿 伊和恒郷命・旧神戸村の戦死者・万国の戦死者

境外摂末社

庭田神社(式内社)
与位神社(式内社)
邇志神社(式内社)
觱篥神社
安志姫神社(姫路市)

一口メモ

鳥取へ行った用事の帰りに一宮町の伊和神社を訪れるため鳥取自動車道を通ってみることに。以前は国道29号線を回って大屋から帰ったのだが、通行量が激変しているのは鳥取自動車道の影響だろうとわかった。

鳥取ICから乗るつもりだったが、南ICも行きすぎて河原ICから西粟倉ICまで走った。無料区間となっている。中国山地を縦貫するだけにトンネルが続く。

国道429号線に左折して山道に入る。兵庫県に入ると急に道が細くなり急カーブの連続する山道になる。

歴史・由緒等

播磨国風土記

播磨国風土記は写本が残されている五つの風土記のうちの一つであるが『出雲国風土記』のように完本に近い形で残されているわけではない。

播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、渡来人(神)のアメノヒボコ(天日槍・天日矛とも書く)との土地争いが伝えられている。

葦原志許乎命(大国主)・伊和大神・大神と天日槍命(アメノヒボコ)
渡来神である天日槍命が宇頭川(揖保川)にやってきた。土着の神である葦原志許乎命に「宿るところはないか」と尋ねたところ、志許は海中を許可した。すると日槍は剣で海水をかき混ぜて勢いを見せ、そこに宿った。日槍の勢いに危機を感じた志許は、先に国占めをしようと川をさかのぼっていった。このとき丘の上で食事をしたが、このとき米粒を落としたため、粒丘と呼ばれるようになった。…
葦原志許乎命と天日槍命は山からお互い3本の葛を投げた。志許の1本は宍粟郡御方に落ち、残り2本は但馬の気多郡・養父郡に落ちた。日槍は3本とも但馬に落ちたため、但馬の出石に住むことになった。

播磨を国占めする神、天日槍命と争う土着の神として葦原志許乎命・伊和大神・大神が記されているが、同神か別神かについて諸説ある。
神や天皇が物を落とす(上記のように意識的に落とす例は少ない)記事は、落とした所がその神(天皇)に関する勢力の土地であることを表す。この説話にはうけいの面もある。

伊和神社(いわじんじゃ)は、兵庫県宍粟市にある神社。播磨国一宮で、延喜式内社(名神大社)、旧社格は国幣中社。
『播磨国風土記』で活躍が描かれている伊和大神(大己貴神)を祀る。海神社、粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。

祭神 大己貴神(大国主神・伊和大神・大汝命)

播磨国の国土開発の神として伊和大神という名を持つ。『播磨国風土記』にその名が見え、本文も伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成である。神社周辺は豪族・伊和族の根拠地であったと考えられ、伊和族が祭祀したとみられている。風土記では伊和大神は出雲から来たとしているが、播磨土着の神が後に大国主神に習合されたという見方もある。
伊和の語源について、風土記の伝承は神酒(みわ)から、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和(おわ)」(感動詞・終わったの意)と呟いてこの地に鎮まったからとしている。このほか、伊和は岩のことで磐座・山・鉱石などを意味するとも考えられている。

由緒・歴史

144年(成務天皇14年)、または564年(欽明天皇25年)の創祀と伝わる。
927年(延長5年)の『延喜式神名帳』には、伊和坐大名持魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ、伊和に鎮座する大己貴神の社)とある。
991年(正暦2年)、正一位の神階に叙せられる。
幾度か火災にあって焼失しているものの、朝廷、国司、守護赤松氏、近隣の藩主などから庇護を受け再建された。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

風土記には、宍粟郡から飾磨郡の伊和里(いわのさと)へ移り住んだ、伊和君(いわのきみ)という古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神と考えられている。

なお、伊和神社の社叢(しゃそう)は、『改訂・兵庫の貴重な自然 兵庫県版レッドデータブック2003』の自然景観でBランクに選定されている。

境内・社叢

  
社頭・注連柱               鳥居・参道 広大な境内。国道から長い参道が延びる。


随神門

  
拝殿

  
幣殿                   本殿


歌舞伎舞台

  

鶴石

御本殿裏手を細い間を通ると石段を下った位置に祀られている。

564年(欽明天皇25年)、豪族・伊和恒郷に大己貴神から「我を祀れ」との神託があった。西の野では、一夜にして木々が群生し、大きな白鶴二羽が石の上で北向きに眠っていた。伊和恒郷はそこを鎮座地と決め、社殿を北向きに造営したという伝承がある。現在の社殿も北向きで社叢のなかにある。石は鶴石と呼ばれ、本殿裏に祀られている。

地名・地誌

地 図

参 考

『延喜式の調査』さん、他

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