日本初之宮 須我神社
Contents
概 要
社 号 須我神社
読み:すがじんじゃ
別称:「日本初之宮」
『出雲国風土記』 「須我社」
所在地 島根県雲南市大東町須賀260
旧地名 出雲国大原郡
御祭神
須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田比売命(いなたひめのみこと) 須佐之男命の后神
清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと) 須佐之男、奇稲田両神の間に誕生した御子神
合祀
武御名方命(たけみなかたのみこと)
社格等
「出雲国風土記」須我社
式外社
出雲国神仏霊場第十六番
近代社格制度 旧県社
創建 神代(不詳)
本殿様式 大社造
例祭日 例大祭 9月28日
境内摂末社(祭神)
海潮神社、若宮神社、荒神の社、虚空社
一口メモ
出雲国とスサノオを調べていて、早くから出雲市佐田に鎮座する須佐神社とともに、たずねてみたかった神社である。
歴史・由緒等
出雲神話のひとつとして有名な「八岐大蛇伝説」。
須佐之男命は大蛇を退治した後、稲田姫と結ばれ初めて宮作りをしました。
これが「日本初之宮」とされている須我神社です。
須佐之男命、稲田姫の夫婦とその御子神が主祭神として祀られており、夫婦円満、児授かり、出産の守護と除災、招福の守護が授かると言われています。-『雲南市公式サイト』より-
簸の川上に於いて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、稲田姫と共にこの須賀の地に至り、美しい雲の立ち昇るのを見て、「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる この八重垣を」と歌い、日本で始めての宮殿を作り、鎮った。これが古事記・日本書紀に記載されている「須賀宮(すがのみや)」であり、日本初之宮(にほんはつのみや)でもある。
三十一文字の歌も日本で一番古い歌であり、この地が「和歌発祥の地」の由縁でもあり、また、この歌の中の「出雲」が出雲の国名の起元である。
神々の宿る八雲山-御室山(みむろやま)の中腹にそそり立つ巨石(夫婦岩)、大中小三つの磐座(いわくら)は、古代における須我神社の社地であり、須我神社奥の宮として崇敬され、参拝に訪れる人々を神秘の世界に誘い込む。参道は「文学碑の径(ぶんがくひのみち)」として60基の歌碑句碑が建立されている。 また、八雲山の頂上(420m)からは眼下に宍道湖、中海をはじめ島根半島から弓ヶ浜、東方遥かに出雲富士(大山)を一望できる景勝地でもある。古事記(和銅五年・712年)所載では、八岐大蛇を退治せられた須佐之男命(すさのおのみこと)と奇稲田比売命(くしいなたひめのみこと)は、出雲国須賀の地においでになり、この地に宮殿を御造りになった。二人の間の御子神が清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)で、この三神が須我神社の主祭神である。 出雲風土記(天平五年・733年)ではここを須我神社、須賀山、須我小川などの名前に表現され、風土記抄(天和三年・1683年)には須我村とあり、須賀は広くこの地方の総称であったことがうかがわれる。 須我小川の流域には、かつて十二の村があった。須我神社はこの地方の総氏神として信仰されていたものであり、また、須我山(御室山、八雲山)の山ふところには巨岩夫婦岩ならびに小祠があり、須我神社奥之宮の磐座(いわくら)として祭祀信仰されている。
合殿の武御名方命(たけみなかたのみこと)は天文年中、当地(淀之荘)地頭職として神(みわ)中沢豊前守が信州諏訪より来任されたとき、その氏神武御名方命の神霊を勧請してこの須我神社に合祀し、諏訪大明神として崇敬せられた。以来村名も諏訪村と改められたが、明治二十二年、元の地名の須賀に復し現在に至っている。 明治二十五年十一月八日、元の島根県社に列せられた。
-「出雲国神仏霊場」-
当社の南に式内 海潮神社がある。当社は古社でありながら、出雲国風土記にも詳しく触れられず、延喜式神名帳にも加えられなかったのはなぜなんだろうか。
当地が属する出雲風土記・大原郡海潮郷(ウシホノサト)の項には
「海潮の郷 郡家の正東16里33歩 古老伝へ云はく、宇能治比古命(ウノチヒコ)、御祖・須義禰命(スガネ、両神とも出自・神格不明)を恨みて、北の方、出雲の海潮を押し上げて、御祖の神を漂はすに、此の海潮至りき。故、得潮(ウシホ)という。神亀3年(726)、字を海潮と改む」
との地名説話を記すのみで、スサノヲに関する記述はない。
『出雲国風土記』に「須我社」とあり別称:「日本初之宮」といわれる古社で有名であるのに、なぜか式外社ではないのが不思議だ。
ウィキペディアによれば、
天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定される。風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていない。本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる。
天文年間(1532年 – 1554年)、当地に地頭として信濃国諏訪から中沢豊前守が赴任し、信仰していた諏訪大社の武御名方命を勧請して須我神社に合祀した。以降長らくの間「諏訪大明神」と称され、一帯の地名も「諏訪村」とされていた[2]が、明治22年(1889年)に地名・社名ともに須我になった。明治25年(1892年)に県社に列した。
境内・社叢
一の鳥居 二の鳥居
社号標 手水舎
「日本初之宮」 石碑 随神門
古事記にある須佐之男命の歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」
龍の手水鉢 ここでは当然ヤマタノオロチ(八岐の大蛇)を連想
拝殿 拝殿内
拝殿扁額 本殿
狛犬
本殿左境内社 本殿右手境内社
境外社 厳島神社(社頭前)
神社の前の道路反対側 「縁結びの松」 厳島神社?
なお、奥之宮登山口夫婦岩があるが下まで行き、山道を600mあるので諦めた。
地名・地誌
須賀(すが)
『古事記』によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということで、「和歌発祥の地」とされている。この宮殿がそのまま神社になったものと伝えているが、ここは根之国よりも西側にあるのでそのまま受け取るには難があり、むしろ東部安来市の須賀神社がふさわしいという意見もある。
地 図
交通アクセス
車/出雲大東駅から約20分
路線バス/出雲大東駅から松江行きに乗り、須賀で下車
周辺情報
夫婦岩
「日本初之宮」とされる須我神社。その奥宮として、須佐之男命ほか三神が祀られている岩座が夫婦岩です。
大きさの異なる2つの岩が寄り添うように並び、その傍らにもう一つ小さな岩。大きなものから須佐之男命、奇稲田比売命、清之湯山主三名狭漏彦八島野命であると言われています。
参 考
雲南市
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