村社 八幡神社(豊岡市梶原)
Contents
概 要
社 号 八幡神社
読 み はちまんじんじゃ
御贄神社(御食津神社)? 保食神 『国司文書別記 但馬故事記』
佐伯神社(荒都神社) 祭神 阿良都命(亦の名は伊自別命)
所在地 兵庫県豊岡市梶原613
旧地名 城崎郡三江郷
御祭神
御神紋
例祭日 10月15日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 養老4年(720) (推古天皇35年(627)『国司文書・但馬故事記』)
本殿様式
境内摂末社(祭神)
一口メモ
国道312号線立野橋交差点を東へ進み、立野大橋を渡り、六方橋を渡るとすぐに斜め左折し、突き当りを左折する。または、堀川橋西詰から六方川を渡りすぐ川沿いに南へ。梶原区の会館前に駐車。鳥居を登る際に、すぐお隣の年配の奥さんに顔があったので「こんにちわ」とあいさつしたら「こんにちわ」と笑顔が帰ってきた。何も言われなかった。純粋な参拝者と分かったのかもしれない。豊岡もまだまだいい人がいるんだなぁと。
石段を登ると、先が見えないほどジグザグを何度か繰り返し、山道が終われば高い石段が待っていた。脇に山道があるが石段をなんとか登りきる。下るときはそちらから降りてきたが、雑草が生い茂り利用されていないようだ。難度は5点満点としたら3.5か?!(まあまあきつい)
歴史・由緒等
元正天皇養老4年(720)秋8月15日三宅宿禰の創立と伝う。
明治6年(1873)10月村社に列せらる。「兵庫県神社庁」
人皇34代推古天皇35年(627)冬12月 物部韓国連神津主の子、久々比命を以て、城崎郡司と為す。
久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(式内 重浪神社:豊岡市畑上)
この時、大旱 に依り、雨を小田井県宮(式内 小田井県神社)に祈り、戎器を神庫に納め、初めて矛立 神事を行う。また水戸上神事を行う。後世これを矛立神事・河内神事と称し、歳事これを行う。
また、祖先累代の御廟を作り、幣帛を奉り、豊年を祈り、御贄田 ・御酒所 を定め、歳事これを奉る。
また、海魚の豊獲を海神(海神社、今の絹巻神社)に祈る。これにより、民の飢渇を免れる。
故に、酒解子神 ・大解子神 ・小解子神 を御酒所(式内 酒垂神社)に、保食命 を御贄村(のち三江村)に斎き祀る。これにおいて各神の鎮座を定む。(私は当社と比定する)人皇42代文武天皇大宝元年(701)秋10月 物部韓国連久々比卒す。三江村に祀り、久々比神社と称しまつる。
佐伯赤石麿を以て、主政と為し、大初位上を授く。佐伯赤石麿はその祖、阿良都(亦の名は伊自別命)を三江村に祀り、佐伯神社と申しまつる。(また荒都神社という)
『国司文書・但馬故事記』第四巻・城崎郡故事記
『国司文書・但馬故事記』にある小田井県神社の御贄と御酒所の神社として、御酒所は、法華寺の式内酒垂神社であるのは確かだが、「人皇34代推古天皇35年(627)
しかし、兵庫県神社庁の神社検索では、この広い三江エリア中心部に、久々比神社、日撫の八坂神社と当社しかないのである。この高い場所に神社が残る気配は、益々、御贄神社(御食津神社)はここではないかと思う。元社は元来高所にあって、のちに集落に近い場所に遷座するのが常で逆の例はまずない。この場所を移動していないようだ。しかも小田井県神社に備える御贄と御神酒は、境内から小田井県神社が見えるこの丘がて適所だ。酒垂神社と御贄神社は同じ県道160号線上だとすると三江村の中心部は、鎌田が古くは神田ではないか。
境内・社叢
鳥居 坂道を登ると最後に石段
拝殿 拝殿・本殿
本殿 境内から豊岡市街
狛犬
本殿左手境内社 本殿右手境内社
地名・地誌
三江(みえ)
『国司文書別記 但馬郷名記抄』
神田・
『国司文書・但馬故事記』天平18年12月 本郡の兵庫を山本村に遷し、城崎・美含二郡の壮丁を召集し…山本村あり。
梶原
御贄郷穀原村
『太田文』
庄境・鎌田・南谷・祥雲寺・法華寺・馬路・下宮・梶原・火撫
右鎌田庄と云う(下三江庄を一名鎌田庄)
山本・金剛寺・舟町・宮島・森・野上
右を今は俗に田結庄と云う(上三江庄を一名田結庄)
三江郷の三江村は三江郵便局が梶原にある通り。神田・あるいは神服部は鎌田。馬地(馬路)は国境の河梨峠を越える今の下ノ宮東部ではないだろうか。御酒所の次に白雲山があり、『太田文』では消えて南谷・祥雲寺がある。物部村は赤石、白鳥村は下鶴井だろう。『太田文』では、三原・畑上・飯谷・楽々浦・戸島・結・赤石・下鶴井は田結郷下鶴井庄に入る。
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