村社 八重垣萬場神社(豊岡市日高町羽尻)

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社号 八重垣萬場神社 古社名 的場神社
読み: まんば
所在地 兵庫県豊豊岡市日高町羽尻291
旧地名 但馬国気多郡太多郷
御祭神
速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)
『国司文書 但馬故事記』葛城城襲津彦命
例祭日 10月9日

社格等

式外社
近代社格制度 旧村社

創建 不詳(人皇41代持統天皇巳丑(みうし)3年秋7月『国司文書・但馬故事記』)
本殿様式

境内摂社(祭神)

一口メモ

国道482号線を西に進む。
3.6 kmで野(交差点) を左折して、県道259号線 に入る。
2kmで左折し、800mで右折。
そのまま2km行き、羽尻区の南の山の中腹。

歴史・由緒等

伝へいふ。
持統天皇3年(689)7月諸国の国司に令して的場を築かしめ給ひしかば、但馬国司廣務参榛原公鹿は気多郡馬方原に祀り、的場神社と称せり。是今の万場神社の起因なり。

然るに的場を万と称せしは、語音の変化したるか、又此神は元西気村万場村より此地に祀られたるなりとも伝ふ。故に生じたるか。後ち速須佐男命を祭神となし安政5年(1858)本殿を再興し明治6年(1873)10月村社に列し同33年(1900)又社殿を再建す。

-「兵庫県神社庁」-

『国司文書 但馬故事記』に、
人皇41代持統天皇巳丑(みうし)3年秋7月、左右の京職および諸の国司に令して的場を築かしむ。
国司務・広参、榛原公鹿我麿は、気多郡馬方原に的場を設け、的臣羽知をもって令と為す。的臣羽知はその祖・葛城城襲津彦命を馬方原に祀り、的場(イクハバ)神社と称す。

主祭神 須佐之男命(スサノオノミコト)
配祀神 奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)

羽尻は行政区で下から、羽尻・河畑・金谷の3つに分けられる。「兵庫県神社庁」では、河畑が萬場神社、羽尻が八重垣神社となっているが、社号標は、八重垣萬場神社となっている。河畑は北奥の谷が深く、的場とするならば、やはり河畑の萬場神社が元で、羽尻は元々八重垣神社であるが、萬場神社の御祭神も合祀されたということだろう。

社伝に、「此神は元西気村万場村より此地

に祀られたるなりとも伝ふ。」とあるが、田ノ口にある清瀧神社が清瀧村からよるものであることは、田の口が太多郷であるので清瀧と山一つで同じ郷。しかし、羽尻・河畑・金谷は三方郷であり、西気万場は太多郷である。往来もないだろうから、的場が訛って萬場神社になった方が正しい。

八重垣神社といえば、松江市の有名な神社です。

社号 八重垣神社
所在地 島根県松江市佐草町字八雲床227
旧地名 出雲国意宇(おう)郡大草(さくさ)郷
御祭神 素盞嗚尊 櫛稻田姫命須
合祀 大己貴命 青幡佐久佐日古命(佐久佐神社)

祭神が同じ素盞嗚尊であり、出雲の八重垣神社から歓請したのではないだろうか。

境内・社叢

  
鳥居                   社号標

   
狛犬


社殿

  

地名・地誌

羽尻
古くは羽知。
気多郡太多郷羽尻村

阿瀬金銀山

山名四天王の筆頭、垣屋氏は、東国武士である土屋氏の一族といい、南北朝時代に但馬守護になった山名氏に従って上野国から西遷してきた。明徳の乱の活躍で山名氏の信頼を得た垣屋氏は、但馬守護代に任じられ、但馬国府南方に宵田城、三方方面に楽々前城、三方富士と呼ばれる鶴ヶ峰にそれぞれ城を築き、さらに竹野に轟城を築いて一族を配した。

総領家は楽々前城に拠り、宵田・轟の一族を統括して、山名氏家中に重きをなした。戦国時代になると衰退した山名氏に代わって、垣屋氏、太田垣氏、八木氏、田結庄氏が自立、割拠して四家が但馬を支配する勢いを示した。やがて、但馬に毛利氏、織田氏の影響が及んでくると、四家はそれぞれの思惑で対立するようになり、さらに垣屋氏も一族が分裂する事態となった。垣屋氏総領家は豊臣大名として生き残ったが、関が原の合戦に西軍に味方したため没落してしまった。気多郡阿瀬金山を支配下におき、菩提寺布金山隆国寺を建立、但馬の有力国衆へと成長した。

永禄5年(1562年)、阿瀬谷河畑のくわさごで発見された、と伝えられている。時代によって、阿瀬銀山、河畑銀山あるいは阿瀬河畑銀山とも呼ばれたようだ。
阿瀬には、阿瀬金山(阿瀬之奥金山)もあったので、併せて阿瀬金銀山とも称された。
天正5年(1577年)、豊臣秀吉の但馬征伐後、別所豊後守の給地になったが、天正10年(1682年)からは生野銀山の支山となり、銀山奉行・伊藤石見守が支配した。それ以来、「木戸岩」、「八十枚山」、「与太郎」など多くの間歩(坑道)が次々と発見され隆盛を誇った。
阿瀬金銀山は広い範囲にわたり、その繁栄をものがたるように「阿瀬千軒」、「金山千
軒」、などの言い伝えが今も残されている。
江戸時代、元文3年(1738年)ごろ、城崎郡にあった金山として「阿瀬奥金山」の名が
ある。
安政6年(1855年)8月、八々山人赤木勝之が著述した「但馬国新図」には、但馬における名産として、『阿瀬の銀』は、生野の銀と並び称されている。

地 図

交通アクセス・周辺情報

阿瀬渓谷・湯原オートキャンプ場・金山峠

参 考

「兵庫県神社庁」