村社 山口八幡神社(朝来市山口)
Contents
概 要
社 号 山口八幡神社
読 み やまぐちはちまんじんじゃ
山口神社 応神天皇・武内宿祢命・波多矢代宿祢命 『国司文書 但馬故事記』
所在地 兵庫県朝来市山口385
旧地名 但馬国朝来郡山口郷山口村
御祭神
例祭日 10月15日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 流造
境内摂末社(祭神)
一口メモ
兵庫県神社庁にある朝来市山口の記載社はここ八幡神社のみであり、『国司文書 但馬故事記』にある山口神社とは当社のことではないかと思っていた。
国道312号線から旧国道の山口へ。山口公民館は近代化遺産でかつての山口村村役場である。そこから引き返してさっきの狭いそれらしき道を進む。社務所兼神官住居前に道が2つに分かれている。右の坂道を進むと神社。朝来町の各不在神社の祭祀を担当されている。
歴史・由緒等
創立年月不詳
明治6年(1873)10月村社に列せらる。
「兵庫県神社庁」
人皇53代淳和天皇天長5年春正月 天火明命八世の孫、大御日足尼命の裔、従八位下、津守宿祢子村を以て朝来大領に任じ、磯部首貞任を以て主政と為し、
人皇55代文徳天皇斎衛2年秋7月 従八位下、津守宿祢子村はその祖大御日足尼命を山口丘に祀り、津守神社と申しまつる。
人皇57代陽成天皇元慶5年秋8月 正八位上、山口朝臣数雄を以て、朝来大領と為す。
山口数雄は応神天皇・武内宿祢命および波多矢代宿祢命を山口丘に祀る。(山口神社)
『国司文書 但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記
境内・社叢
鳥居 鐘楼
神社に寺の鐘楼があるのは
神社に寺である鐘楼があるのは、かつての明治新政府により出された神仏判然令(神仏分離令。神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。神仏分離令)の名残である。政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた。
神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。
しかし新政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年頓挫した。この令にとっても、政治によって古くからの歴史伝統をときの政治が決めることがいかにどんなに優秀な学者や政治家であっても国の歴史を一個人の解釈で変更するなど奢り以外の何者でもなく、神仏に限らず万物を八百万の神とする日本人の精神に背いている愚かな愚策であった。
時刻や災いを知らせるのが鐘楼であり、それが山口村の人々がこの鐘楼を廃棄せず守ってきた誇りであろう。このように神社に鐘楼を大切に守っている神社は少なからず今もある。それは村が自治としてすぐれて保たれてきた誇りであり、その象徴が鐘楼を残しているのだとだんだん確信をもった。
割拝殿 拝殿
狛犬
本殿
本殿左境内社 本殿右境内社
地名・地誌
山口
『国司文書 但馬郷名記抄』
山口郷
竹原・秦野・
山口郷は山口朝臣の領行する所。この故に名づく。山口神社あり。誉田別天皇(応神)・武内宿祢命・波多矢代宿祢命を齋き祀る。波多宿祢は山口朝臣の祖なり。
矢代は八代だから波多は羽渕の古名では。あるいは、『国司文書 但馬故事記』に「人皇53代淳和天皇天長5年春正月 天火明命八世の孫、大御日足尼命の裔、従八位下、津守宿祢子村を以て朝来大領に任じ」とあるので津守は羽渕の古名かもしれない。
『和名抄』
山口郷
村数28分を3となる。
竹原野・上生野・
黒川枝村也 魚瀧・大外 右黒川谷と云う
山口・口
右山口組と云う
地 図
交通アクセス・周辺情報
JR播但線「新井駅」より南へ1600m
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