村社 押武者神社(養父市大屋町笠谷)

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 押武者神社
読 み おしむしゃじんじゃ
加佐神社 『国司文書 但馬故事記』

所在地 兵庫県養父市大屋町笠谷208-1
旧地名 但馬国養父郡大屋郷笠谷村
御祭神 武甕槌神タケミカツチノカミ
御神紋
例祭日 10月17日

社格等

近代社格制度 旧村社
創建   年代不詳
本殿様式

境内摂末社(祭神)

なし

一口メモ

県道6号から48号線を西へ。兵庫ナカバヤシの工場のすぐ手前を南へ。奥へ進むと薬師如来堂のすぐ近くにあるようだが、見つからず奥まで行って引き返す。途中に登る道があったので、よく見ると建物小屋が見えたのでしばらく登ると神社。鳥居や社号標など押武者神社とわかるものが見当たらず、覆屋に本殿と摂社もしくは末社が両側に1社ずつ計3体。

押武者神社といういわれはよく分からないが、拙者が以前に書いた記事から。
秀吉の但馬征伐のはなしを

天正五年(1577)秋、羽柴秀吉は竹田城をおとしいれた時、秀吉は播州一揆の起こったことを聞きました。直ちに弟の秀長に養父・出石・気多・美含・城崎の郡を、藤堂孝虎に朝来・七美・二方の郡を攻略するように命じ、自分は播州へ引き上げました。このあと、秀長は勢いに乗って養父郡の多くの城を落とし、出石城をめざして進んでいきました。
大屋に向かった高虎は、加保村の栃尾加賀守、その子源左衛門を頼って隠れ、体制の立て直しをはかりました。このことを隣の瓜原村瓜原新左衛門が小代へ知らせました。知らせを聞いて一揆の連中は天滝を越え、大屋谷へ攻め込んだのです。自分らの本拠を離れてまで攻めていこうとは、なかなか剛の者たちです。高虎は栃尾親子の助けを借りて蔵垣村にまで出て防戦しました。戦いはなかなか決着がつかず、疲れてきた一揆の連中は横行(よこいき)村に引きこもり、ここに砦を築きました。そして隙をみて攻めてくるゲリラ戦に変えたのです。横行村は平家の落人の伝説で有名な山奥の村です。この間に瓜原新左衛門は一揆の連中と連絡をとり、ある晩、百人余りで栃尾の邸を囲みました。しかし、源左衛門や刈鈷(かりなた)新兵衛らの活躍により、反対に瓜原新左衛門の方が首をうたれてしまいました。

こうしている間に高虎は次の作戦を進めました。夜陰にまぎれて密かに行動を起こし、一挙に、一揆の本拠横行砦を襲ったのです。一揆勢は不意をつかれてびっくり仰天、体制を立て直す暇もなく、散々にうちのめされ、おもな大将のほとんどは討ち取られてしまいました。しかし、高虎もこの夜は、あやうく命を失うところでした。源左衛門が駆けつけてうち払い、九死に一生を得たのでした。 藤堂家はこのときの恩義を忘れず、栃尾家に対して代々厚く報いています。天正八年(1580)、秀吉が再び但馬に攻めてきた時、完全に息の根を止められてしまいました。

歴史・由緒等

創立年月不詳
嘉永3年(1850)本殿を再建し、明治6年(1873)10月村社に列せらる。

「兵庫県神社庁」

人皇45代聖武天皇天平18年冬12月 笠臣益世また来たり。大屋邑を開く。

笠臣益世はその祖、稚武彦命を大屋丘に祀り、これを加佐神社と申しまつる。

『国司文書 但馬故事記』第三巻・養父郡故事記

境内・社叢

  
境内                       社号標らしき石柱 文字は読めなかった

  
本殿覆屋


本殿(ピンボケだったw)

  
左右摂末社

地名・地誌

地 図

兵庫県養父市大屋町笠谷208-1

交通アクセス・周辺情報

 

参 考

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