『国司文書・但馬故事記』
天平19年(747)春3月 本部の兵庫を竹野郷に遷し、武事を練習す。
葦田首鞆麿(あしだのおびとともまろ)を以って、兵庫の典鑰*1と為す。葦田首鞆麿は兵主神を兵庫の側に祀る。故れ其後その地を葦田村と云う。
美含大領・従八位上・矢田部連守柄は、伊多首辰巳を召し、竹野郷に遣わし、金原の赤金谷鉱石を相し、これを採掘せしむ。陶谷・蕩(ヒク)・小埦(オマリ・土偏に宛)・埴生(ハブ)の陶人等に依って、これを発見せしなり。
(註 陶谷は今の須谷、蕩は赤土を置く谷で止呂呂久と云う。今の轟、小埦は小丸、埴生は今の香美町香住区土生)
伊多首辰巳はその祖・石凝姥命(いしこりどめのみこと)を大谷丘に祀り、これを日御前神社と申しまつる。(日御前神社 豊岡市竹野町東大谷)