村社 日枝神社(香美町村岡区柤岡)
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概 要
社 号 日枝神社
読み ひえじんじゃ
近世山王権現と称していた
所在地 兵庫県美方郡香美町村岡区
旧地名 但馬国二方郡陽口郷(のち温泉郷)
御祭神 主祭神
配祀神
御神紋
例祭日 10月21日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 天安2年(858)
本殿様式 三間社切妻造、向拝一間、柿葺 19世紀前期
境内摂末社(祭神)
山神社・八幡神社・稲荷神社
一口メモ
国道9号線から高い山肌にへばりつくようにかなり大きな柤岡集落の人家が見える。亡祖父が熊波の出であることもあって、国道を通るたびに熊波・柤岡に目が行った。春来峠が旧山陰道であったが、脇街道として照来から柤岡・熊波を通り、本街道に入る道だったであろう。しかし車でも遠いこの薄暗い急坂を昔の人は歩いたのかと思うと大変だったろうと痛感する。それは小代やどこの神社めぐりでも感じることだが。私は柤岡は、春来峠の南側であり、村岡区熊波に近いので、どうしても元は温泉郷(照来地区)とは思えなかったので、実際に国道9号線の旧道から熊波を通り、柤岡の日枝神社をさがした。
集落の幾重のジグザグ道を登り、最上段に神社への狭い道がある。神社は柤岡集落の西端に位置する。地図では離れているように見えたが、集落からすぐだ。本来は神社の下へ集落の本道から歩いて行く参道があった。神社は道の真下に見えているが道らしきものがないので、通りがかった付近の女性がこの道から降りられるとおしえてくださった。
歴史・由緒等
天安2年(858)の創立と伝え、近世山王権現と称し、天正9年(1581)羽柴秀吉戦勝を祈る。
明治2年(1869)、日枝神社と改称し、同6年(1873)10月村社に列せらる。「兵庫県神社庁」
境内・社叢
鳥居(村社では珍しい両部鳥居(四脚鳥居)) 手水舎
狛犬
拝殿 本殿覆屋・右手境内社 八幡神社
本殿左手境内社 山神社 境内社 稲荷神社?
地名・地誌
『国司文書別記 但馬郷名記抄』陽口郷に、
壇貢進の地なり。日枝神社あり。大山咋命を祀る。『国司文書別記 但馬郷名記抄』
※二方郡
今の
『国司文書・但馬故事記』に、壇岡が最初に表れるのは、
人皇30代欽明天皇30年秋7月 伊角大若彦命の子、檜尾真若彦命を以て、二方国造と為す。檜尾真若彦命は黒杉太立彦命の娘、黒杉太立姫命を娶り、真弓射早彦命を生む。
人皇35代舒明天皇12年春3月 真弓射早彦命を以て、二方国造と為す。
人皇37代孝徳天皇2年5月 二方国造真弓射早彦命に勅して、当国の甲冑および弓矢を閑広の処に収め、兵庫を作り、軍団を設けしめ給う。
壇岡が今のどこに当たるのか、長い間分からなかった。旧二方郡と七美郡を分ける春来峠一帯は延喜式に春木神社が七美郡に記されており、一時春来は七美郡になっていたのか、柤岡は二方郡温泉郷なのか、七美郡射添郷なのか。壇岡がどこなのか。
『国司文書・但馬故事記』第八巻・二方郡故事記の巻頭にある布多県国のはじまりに、人皇1代神武天皇以前に年代は記されていないが、早くも「大山咋命は日枝宮に坐す」とある。巻末の神社新名帳の式外社に日枝神社が記されている。
しかし、兵庫県神社庁の掲載神社で日枝神社は、二方国(今の新温泉町)にはなく、香美町村岡区柤岡にあるのみである。
壇岡が陽口郷の筆頭に別枠でくわしく記されていることから、陽口郷(照来地区の東エリア)の中心だったようだ。いつごろから壇岡が柤岡と呼ぶようになったかは不明だが、和名抄には柤岡とある。柤をケビとは読めない。訓-そ、音-ジャ・サ。
- 「樝」(しどみ)の略字が「柤」になったのではないかと想像する。シドミは別名クサボケ、ジナシ…(2013/7/31、日本海新聞・パソコンメモ)
私はこの説は取らない。なぜなら、『国司文書別記 但馬郷名記抄』には壇岡に日枝神社がある。七美郡・二方郡に日枝神社が記されているのは当社のみであり、今は香美町村岡区であるが、柤岡はかつては二方郡温泉郷だったのだ。柤岡区は柤岡高原があり、とても広い区なのに、集落は最南端の斜面に張り付くように固まっている。おそらく春来にしても豪雪地帯であり、雪解けの早い南側の斜面に定住したのではなかろうか。壇岡の壇を略したとしたと考える方が適切だ。しかしなぜ「そおか」ではなくて、「ケビ」と読むのだろうかと想像するに、人皇37代孝徳天皇2年二方郡の軍団は最初竹田周辺に置かれたが、人皇40代天武天皇白凰12年に刀岐波村に兵馬の牧馬場が設けられている。なぜ「柤」を「ケビ」と読ませるのか。
地 図
交通アクセス・周辺情報
ホームページ
参 考
兵庫県神社庁・香美町
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