村社 日枝神社(豊岡市日高町宵田)
Contents
概 要
社号 日枝神社
読み ひえだ(ひえ)
所在地 兵庫県豊岡市日高町宵田70
旧地名 但馬国気多郡高生郷
御祭神
主祭神 大山咋命(オオヤマクイノミコト)
配祀神 大己貴命 大山祇命
(オナムチノミコト オオヤマツミノミコト)
例祭日 10月17日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 伝:慶雲二年(705)
本殿様式 日枝造
境内摂社(祭神)
摂社 西宮神社 境内社 稲荷神社
一口メモ
この神社は、但馬三大えびすのひとつ、宵田のえべっさんで知られる。
歴史・由緒等
由 緒
伝え云う文武天皇慶雲2年(705)養父郡神美寺創建の際、鎮守として同寺山上に白山権現を、山麓に山王権現を勧請す。即ち所謂山王権現は当社なりと、明治2年(1869)日枝神社と改称し、同6年(1873)10月村社に列せられ大正4年(1915)社殿を今の地に移転し本殿を再建せり。-「兵庫県神社庁」-
当社は宵田及び岩中二村の鎮守神にして岩中村字宮ノ谷に鎮座す。
当社は元山王大権現と云えり。宝暦九年神社書上に
一 山王権現社 五尺五寸ニ六 一 荒神小社 一尺五寸、一尺六寸
右凡そ1050年前に勧請と申し伝える。社人別当無し。両村が支配し仕える。
とて、建社年代を千余年前に作れり。しかして里人の伝説によれば、当社は養父郡宿南村進美寺の守護神として奉斎せしものにて同寺と共に建社せられたりと伝うを以て、同寺の草創、慶雲二年なれば、当社も慶雲三年なりと伝えり。今宵田村60戸 旧岩中村戸の鎮守神にして境域152坪を有し。
(付記)
当社は宵田、岩中両村に汾って流るる円山川の対岸にあり。地理はなはだ便ならざるを以て、宵田村の中央に遥拝所を設け村民朝詣暮拝の利を図れり。
『日高村郷土誌』
宵田村は、山名四天王・垣屋氏の居城宵田城の城下として栄え、山王権現を勧請したと間違い無いだろう。山王権現は近江日枝神社が本社で、武家の居住地や城下では、山王社(日枝神社)は八幡神社と並び、好んで建立されている。
境内・社叢
鳥居(西宮神社)・境内 手水舎
拝殿前狛犬
拝殿(舞殿) 拝殿扁額
本殿
拝殿手前境内社 稲荷神社
摂社 西宮神社
日枝神社摂社西宮神社は但馬三大えびすとして1月10日は近隣からも大勢の参拝客で賑わいます。
地名・地誌
宵田
『国司文書別記 但馬郷名記抄 第一巻・気多郡郷名記抄』に、
古語は多可布。
高生郷は、威田臣荒人(いだおみあらびと)の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく。
矢作部(ヤハギベ)・善威田(ヨヒダ)・善原(エバラ)・稲長(イナガ)の4邑。
「太田文」は、同じ4村で、地下(じげ)・宵田・江原・岩中。
とあるから、稲長が今の岩中で、宵田・江原・岩中はそのまま残っている。矢作部がのちに地下であろうが、それは現在のどこなのだろう?
岩中と稲葉川を鋏み以南は、もとは養父郡浅間郷浅倉で、また江原以北は日置郷であった。現在もそのまま区は存在する。地下というからには、他より低所ではなかっただろうかと思う。ならば現在の東構区内なのだろうかと思うが、東構区は、祢布南部(中川右岸南部)と岩中字東柳の一部が明治に独立し地番は、祢布と岩中と判明している。
くわしくは、鹿嶋神社 豊岡市日高町岩中で記すが、
鹿嶋神社
明徳年間(1390~1393)山名氏の家臣旧地下村の氏神と定めたりしもその後、社殿荒廃せしかば大正2年(1913)現在地へ移転遷座せり
-「兵庫県神社庁」-。
『紀行文集 筑紫紀行巻之九』 大橋音羽校貞(1869-1901) 東京博文館蔵版
…五丁計行けば江の宮(寄宮)村。農家二・三十軒あり。冬春は此所より湯島へ渡る船あり。夏秋は水浅きによりて渡さずといふ。
二丁行けば宿南村。農家三・四十軒。村はづれに茶屋のあるに立ち入りしばし休みて。平道五・六丁行ば。左は岩山。右は気多川にて。岩山の裾の川岸の上をば。小坂を登り下りしつつ行く。足いと痛し。此間を岩掃(いははき)といふとなり。十丁計行けば浅倉村。農家五六十軒。茶屋一軒あり。村の出口に瀧中川とて。潤十間計の川あるを歩(かち)より歩る。
二・三丁ゆけば岩中村。農家三・四十軒あり。引き続きて宵田町。(小田村より是まで一里半)上中下の三町あり。商家宿屋茶屋あり。町の中通に溝川あり。引き続きて江原村。人家百四・五十軒。茶屋あり。商家多く酒造の家あり。二丁ばかりゆけば日置村。農家四五十軒あり。さて神帳に但馬多気郡(※気多郡の誤り)日置神社とあるは。此村にあらざるか。二丁計行ば伊福イフ)村(鶴岡)。(宵田より是まで半里)農家四・五十軒。商家茶屋あり。宿屋なし。
宵田城
宵田城は標高156メートルの城山と呼ばれる山上にかつて存在した山城である。山名氏の重臣垣屋隆国が本城である豊岡市日高町佐田の楽々前城の出城として築き、 以後、宵田城は垣屋宗家の一翼をになって戦国時代を迎えた。 天正八年(1580)、羽柴秀吉の但馬侵攻に際して、ときの城主垣屋峰信は織田勢に抗戦、敗れて討死したという。次男の国重を城主に配した城。上記の山名氏の家臣旧地下村の氏神と定めたとあり、家臣とは山名氏の重臣垣屋隆国。
豊岡市宵田や出石町宵田がある。ここ宵田城主垣屋氏が、山名氏の城代として木崎(城崎)城(豊岡城)に上がった際に、城下を宵田町と名付けたことに由来する。出石町宵田は山名氏の有子山城下に、気多郡領主垣屋氏の屋敷があったとされる名残り。同様に出石町田結庄も、山名四天王・城崎郡領主田結庄氏の屋敷があったことからだといわれている。
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