村社 海神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社 号 式内 海神社
読み:かいじんじゃ

凡海おほしあま神社 『国司文書別記 但馬郷名記抄』(975)
延喜式神名帳 式内社 但馬国城崎郡 海神社(名神大)論社
読み: 古 アマノ、近代 かい
所在地 兵庫県豊岡市小島字海ノ宮965
旧地名 但馬国城崎郡田結郷
御祭神 祭神:大綿津見命(おおわだつみ のみこと)
配祇:建田背命(たけだせ のみこと)
例祭日 4月12日 春祭

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
城崎郡[キノサキ]:21座 大1小20
式内社(名神大)

近代社格制度 旧村社

創建     『国司文書 但馬故事記』人皇十八代履中天皇、明治3年(1870) 現在地に遷座した?
本殿様式   春日造 柿葺

境内摂社(祭神)

金毘羅社

一口メモ

日本海に注ぐ円山川の河口、港大橋を渡るとすぐに但馬五社のひとつ絹巻神社がある。式内海神社(名神大)は今の絹巻神社だといわれている。ではなぜ論社の海神社が対岸の小島にもあるのだろうか。この疑問は私が神社に関心をもつようになった10年前の早い時期からである。

2009年1月12日。11日は大雪警報が出て、朝から雪が降り続いた。
さて、先日改めて豊岡市港地区の海神社を訪ねてきた。
海神社は、延喜式神名帳で但馬国城崎郡で1社のみ名神大社となっている古社。それにしては小さな神社なのでこれまで気付かず素通りしてしまい、ようやく訪ねることができた。

2013年10月24日撮影のため再度参拝。名神大海神社は今の絹巻神社であり、その名を残している。

歴史・由緒等

松葉ガニで知られる津居山漁港があり、海の無事、大漁を祈願する「ウミ神さん」として親しまれています。地元の人に場所を聞いた際には、「うみ神社」と呼んでいるらしいです。
境内の南側に不思議な盛土のような岩があったが詳細は分からない。
ただし、但馬五社のひとつとしては、当地の海神社ではなく、旧社地の絹巻神社である。

由 緒
旧城崎郡唯一座の式内名神大社である。
仁明天皇承和9年(842)官社に預り清和天皇貞観10年(868)従5位上となる。
延喜式の制大社となり天武天皇白鳳3年絹巻神社相殿となる。
明治3年(1870)別殿に仮遷座し、翌4年(1871)本殿を上棟して正遷座祭を行う。
同6年(1873)10月村社に列し、12年(1879)2月本殿覆(おおい)を建立す。

-「兵庫県神社庁」-

祭神は、大綿津見命(オオワダツミノミコト)。
『国司文書 但馬故事記』『国司文書 但馬神社系譜伝』では、絹巻神社は、大綿津見命を海童神(オオワダツミノミコト)と書く。海部直(あまべのあたい)の祖・建田背命(たけだせのみこと)も祀る。
海部直とは、かつて大和朝廷に海産物を献上した部(べ)のことをいう。この地が古来より漁業が盛んであったことがわかる。

由緒に、「延喜式の制大社となり天武天皇白鳳3年絹巻神社相殿となる。明治3年(1870)別殿に仮遷座し翌4年(1871)本殿を上棟して正遷座祭を行う。」とあるので、江戸期までに海神社は絹巻神社相殿として絹巻神社に鎮座されていたようである。

『国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡故事記に、

人皇十六代応神天皇の三年夏四月、
大山守命に令して、山海の政を統治せしめ給う。
大山守命は多遅麻黄沼前県主 水先主命の子 海部直命(あまべのあたえのみこと)を使(し)て、当国の海政を行わしめ賜う。海部直命は当国の海部を管(つかさど)る。

人皇十七代仁徳天皇の秋九月、
水先主命の子 海部直命をもって、城崎郡司兼海部直となす。
海部直は諸田の水害を憂い、御子 西刀宿祢命に命じて、西戸(せと)水門を浚渫(しゅんせつ)*1せしむ。

故(か)れ御田 たわわなる故 功有ると云う。

(中略)

人皇十八代履中天皇 海部直命の子 西刀宿祢命(せとのすくねのみこと・今の字は瀬戸)をもって、城崎郡司となす。
西刀宿祢命は海部直命(アマベノアタエノミコト)を気比丘に葬る。(式内西刀神社)
海部直命は在世中、仁政多く有りき。故れ農人・海人(あまひと)等 父母を喪ひしごとく哀泣す。はてに相謀(相談)り、国司に請い、祠を建て、これを祀る。海神社、これなり。

これの由緒をもって、天災風害あれば必ず祓い、不漁の事あれば必ず祈る。

一日(あるひ)神霊、信者に告げて曰く、
「海を守るは黄沼前宮に坐(いま)す海童神に有り。
船を守るは神倉宮に坐(いま)す船魂神に有り。
この海童神をこの地に勧請し、歳時これを斎き祀れ。
われ風災ごとにこの神等に供(みとも)しまつり、難船を救わん。もし社頭に不時の神火顕(あらわ)るれば、すなわち変災の信と為せ」と。
土人(土地の人)これを黄沼前郡司 西刀宿祢命に奉す。
西刀宿祢命は、国司に請うて、海童神・船魂神を遷(うつ)し、これを祀り、神人を置き、気比義麿をもって奉仕せしむ。

(*1 浚渫(しゅんせつ) 港湾・河川・運河などの底面を浚(さら)って土砂などを取り去る土木工事のこと)

境内・社叢


社叢

   
社号標             鳥居 境内

   
狛犬

  
拝殿覆屋

  
境内社 金毘羅社             石碑


境内左手に巨岩がむき出しになっている。何か意味があるのだとすれば元々社殿が建てられる前までは磐座ではなかったか?

(追加撮影:2013.10.24)

地名・地誌

小島(おしま)

円山川下流には、小島・戸島・桃島・湯島・宮島など島のつく地名が多く残る。豊岡市日高町上石あたりから円山川下流域は、昔は黄沼前海(キヌサキノウミ)という入江で、水位が高かった頃、小島が多くあった。黄沼前を中世には、「城崎」と記すようになった。

美方郡新温泉町海上(うみがみ)に児嶋神社がある。『国司文書別記 但馬郷名記抄』、『国司文書 但馬故事記』第八巻・二方郡故事記に当地の出来事が記されており、小島と書いて「おしま」と読む地名の由来のヒントがあるように思う。

人皇48代称徳天皇の神護景雲二年(768)夏六月、主帳大初位下・大庭造戸田麿を以て主政に任じ、十八位下を授く。凡海連オオシアマノムラジ美寿雄を以て主政に任じ、大初位下を授く。凡海連美寿雄は、その祖穂高高見命を小島丘に祀り、小島神社と申し祀る。

『国司文書 但馬故事記』第八巻・二方郡故事記

二方郡八太郷海神(わたかみ)村

海神村は凡海連在住の地なり。凡海連は、聖武天皇の天平19年秋7月、城崎郡小島村よりこの地に移住し、土地を開く。故に凡海連の祖穂高高見命を斉きまつる。

城崎郡小島村は、この年の夏五月大地震い、全村ほとんど陥没す。凡海(おほしあま)神社は震災にかかる。故に凡海連は、御神体を出しまつり、山の峯に斎きまつる。

一夜波多宮にあり。布留玉命は八太造に託宣して曰く、

汝の族凡海連、城崎郡小島山において震災にかかり、身を置く所なし。故にこの地に迎えて保護せよ、と。
八太連はその霊夢に感じ、城崎郡小島村に至り、凡海連に逢い、その神託を語り、これを迎える。
故に凡海連の一族は、八太郷に遷り土地を開く。凡海神を斎きまつり、小島神社と称し祀る。小島村の凡海神社をもって、この地に遷しまつる。
凡海連は、海部直命の御子孫絶えたる後、海人を給する頭領となる者なり。御子孫は、世々海人頭領となる。故に天武天皇の御世三年秋七月、穂高高見命を小島の碇石山に斎き祀り、これを凡海神社と称し祀る。

『国司文書別記 但馬郷名記抄』

凡海連おおしあまのむらじ小島おしまに転訛したものという気がする。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

「延喜式神社の調査」さん、他