村社 物部八幡神社
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概 要
社号 八幡神社
通称 物部八幡神社
読み:はちまんじんじゃ
所在地 兵庫県朝来市物部932
旧地名 但馬國朝来郡伊由郷物部村
御祭神 主祭神 品陀和気命(ほむだわけのみこと)
配祀神 足仲彦命(あしなかひこのみこと) 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
例祭日 10月15日
社格等
式外社
近代社格制度 旧村社
創建 貞観17年(875)
本殿様式 流造飾り破風
境内摂末社(祭神)
一口メモ
県道70号線(旧国道)前に鳥居と大きなケヤキがある。その奥へ進み、山中に鎮座している。県道から境内下に行けるみいがあるようだ。
鎌倉時代(弘長年間:1261-64)物部頼久・物部治政・加陽国親が城主となった物部城があった。城はその山にあったのだろう。
山口に岩州城があった。物部次郎左衛門治政・足羽是高が城主とある。その後、同じ物部氏なので本拠は岩州城へ遷ったのだろう。天正五年(1577)秋、織田信長が中国の毛利氏を攻略するため、その先発隊を家臣の羽柴秀吉に命じました。秀吉は播磨国に兵を進め、姫路に本拠を構えることになるのですが、それには側面の敵でもある山名氏を討伐する必要があるので、秀長は北上して但馬国に入って太田垣氏の占領している生野銀山と生野城をはじめ山口の岩州城を攻め落としている。当時の城主は太田垣出雲守。一両日で陥落し、ついで竹田城攻めにかかっている。(参考:但馬の中世史ー宿南保著)
そこまでは昨年行き、境内は今回が初。鳥居から参道が延びて少し歩くと石段と割拝殿があった。
物部八幡神社の南には、桑市物部神社がある。青倉駅の少し南先方の道端沿いに小さな丘と、その上に神社が祀られる。ここは県指定文化財(昭和36年8月23日 ) 但馬では池田古墳に次ぐ規模の前方後円墳 船宮古墳の上にあたる。
歴史・由緒等
由 緒 貞観17年(875)の創立と伝え貞享4年(1687)社殿火に罹りて烏有となり生野奉行酒井七郎左衛門之を再建せり。 明治6年(1873)10月村社に列せらる。 「兵庫県神社庁」
創建が貞観17年(875)は、八幡神社では朝来郡で最も古くからある。しかし、八幡神を祀るようになったのは、中世の武士の習わしなのだから、南方の桑市八幡神社が元は桑市神社だったように元々は八幡神とは関係のない別名の社であったと思う。 『国司文書別記 但馬郷名記抄』に、
伊由郷は、すなわち木綿郷なり。穀宇栽培の地。伊佐布魂命の末裔、麻布魂命この地にあり。穀宇を作る。故に麻布御魂神社あり。 伊由村・物部村・須賀村・梨岡
伊由には伊由神社 祭神 伊由登美彦命が、『国司文書・但馬神社系譜伝』(同時代)に記載があるので、麻布御魂神社は伊由神社ではないから、可能性もある。 後述のように物部城が気づかれた頃八幡神である誉田別命を祀り、八幡神社とした以前は、社号・祭神は別だったと思う。 『国司文書・但馬故事記』人皇44代元正天皇の養老三年(719)冬九月、朝来軍団を廃し、健児所(こんでいところ)と為す。健児所を物部邑に遷し、健児五十人を置き、兵庫および鈴蔵を守らしめ、伊由武万侶を以って、健児所ほ判官と為す。 とあり、当社の創建年代とされる貞観17年(875)に近い。元々の祭神は伊由武万侶かも知れない。
境内・社叢
大ケヤキ 割拝殿
境内 手水舎
本殿・拝殿
本殿左境内社 本殿右境内社
参道左境内社
地名・地誌
物部城
物部城は朝来志に鎌倉時代中庸期の 弘長年中(1261‐64)物部賴久が物部庄地頭としてか?此の地に移り住んで地名を姓とし物部氏を名乗り子孫が代々居城したとされる。 物部氏の後裔という土肥家に伝わる系図によると源頼政(鵺退治伝説で有名な文武に秀でた武将で、全盛の平家にあった唯一の源氏だが後:京都宇治川の戦いには源氏の将として平氏と戦い討死している)の三男:賴兼の子孫で初代:賴久が弘長3年(1263)物部に移り文永9年(1272)2月 京都に於いて二男:義清と共に討死している。二代目は嫡男:貞政が継ぎ四代目惟政の妻は太田垣土佐守景観の女(むすめ)。 五代目は嫡男:家親が応仁の乱中:京都で討死・三男:国観は山名家の近臣なり、二男清政が継ぎ応仁の乱に戦功もあった由。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「兵庫県神社庁」
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