村社 當勝神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 村社 當勝神社
読 み:まさかつじんじゃ
所在地 兵庫県朝来市山東町粟鹿1748
旧地名 但馬国朝来郡
御祭神

正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ・アメノオシホミミ)

『国司文書 但馬故事記』、當勝足尼命マサカツノスクネ(朝来県主)
祭礼 10月17日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』 式外社
近代社格制度 旧村社
創建     天平2年(720)
本殿様式  流造

境内摂社(祭神)

摂内社 當勝稲荷大明神

文化財

随身門と古宮(旧本殿) 市文化財

一口メモ

国道432号(北近畿豊岡自動車道和田山春日線)山東ランプから、南西左折する。名神大社で出石神社と並び但馬一宮とされた粟鹿神社の前を通り、集落内を進むと粟鹿集落の奥に広い道が交差する角に鎮座。

歴史・由緒等

當は旧字で今だと『当勝神社』(まさかつ神社と読みます)。
“勝つ!” “当る!” “勝ちが当たる”神社としてひそかな人気がある。
式内社ではないが、朝来市(旧朝来郡)では粟鹿神社、青倉神社と並ぶ有名な社で、但丹三国に広く尊信を集めている。

由 緒
伝へ云ふ神功皇后三韓征伐の際、粟鹿大明神住吉明神と共に皇后を助け表米大明神の新羅征伐の際、亦粟鹿大明神と力を合せて冥助を垂れ給ひき故に清和天皇の御代には粟鹿神社の下宮と仰がる。

降って寛永7年(1630)、寛延2年(1749)、安政2年(1855)に本殿を再建し天明6年(1786)幣殿を造立す。

延享4年(1747)には社殿を建立し此の前後に本殿覆を再建し天保(1830~1843)頃には失せ物発見の験ありとて俗間の信仰を集めたり慶応4年(1868)本殿拝殿以下を再建し明治6年(1873)10月村社に列せらる。

-「兵庫県神社庁」-

『国司文書 但馬故事記』に、
人皇16代応神天皇元年月、県主武田背命は禾鹿(あわが)神の託宣に依り、当勝足尼命の子、表米別命(おもてしねわけのみこと)をして、神功皇后を禾鹿神の屋代丘に祀らしむ。
また、水谷の神を祀らしむ。これ、丹波道主ノ命なり。

創建年代

創建は奈良時代の天平2年(720)と伝えられ、現在の本殿は、慶応4年(1868)に建てられたもので、安政6年(1859)に建てられた本殿など見所が多い神社建築です。祭神として、開運繁栄の神、 万物創世の神、織物の神の三柱が祀られる宮として、但丹三国に広く尊信を 集めています。

建築

武官の木造二体が安置されている随身門と古宮(旧本殿)は共に市文化財に指定されており、 とりわけ古宮の彫刻は仲井言次忠定といった当時の工匠の技が存分に発揮された力作で、 その装飾的技術は近隣に類を見ないものです。(朝来市)

棟札の記述から730(天平2)年の建立との説がある。旧本殿(古宮)や絵馬が市の重要文化財に指定されている。

御祭神 天忍穂耳命

天忍穂耳命(アメノオシホミミ)は、日本神話に登場する神。『古事記』では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、『日本書紀』では天忍穂耳命、『先代旧事本紀』では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。

『古事記』では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(『日本書紀』の一書では次男)で、物実の持ち主であるアマテラスの子としている。高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にアメノホアカリとニニギをもうけた。

葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカツチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる。「オシホ(忍穂)」は多くの稲穂の意で、稲穂の神であることを示す。 合気道開祖植芝盛平は正勝を「敵に屈せず、正しいことを行なって勝つ」、吾勝を「たゆまず修行し、己に勝つ」、勝速日を「相手と対峙した時にすでに勝っている」と解釈し、合気道の理念を表す用語とした。

(ウィキペディア)
  
社叢                     朱塗りの鳥居 拝殿までにいくつもの鳥居がある  随身門と手水舎

  
随身門(朝来市指定文化財)

  
拝殿上部                    拝殿と本殿

江戸時代後期に建てられたもので、八脚単層門、切妻、軒唐破風、銅板葺、細部には繊細な彫刻が施されおり、力士なども見られます。

拝殿には多くの彫物があり、丹波柏原の中井家四代、中井権次正次の作とか。向拝回りの鳳凰、龍、獅子は見事です。

  
拝殿絵馬


當勝天神(朝来市指定文化財)

社殿左側に建立されている當勝天神(朝来市指定文化財)は当勝神社の旧本殿だった建物で切妻、桟瓦葺、桁行3間、梁間2間、彫刻は仲井言次忠定が手掛けた貴重なものとされます。

   
當勝天神と奥は靖霊社


社殿右には當勝稲荷大明神

地名・地誌

地 図

交通アクセス・周辺情報

當勝神社 社叢林

粟鹿神社 社叢林(3.3ha)と並ぶ當勝神社の社叢林は、神社を中心に約3haにわたっている。樹高約30mの大杉が神木として信仰されているほか、推定樹齢350~400年の巨樹古木、シラガシやサカキなどが混生しており、市指定天然記念物となっている。

中島貞久宮司(55)や山東町史によると、山東町では粟鹿神社と並ぶ代表的な神社で、広く但馬、丹波、丹後に信者がいるという。祭神について文献はないが、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさやあかつかつはやひあめのしほみのみこと)を主神としているという。天照大神の子で、天上の国・高天原から降臨せよといわれたが、子に譲ったとされる神だ。

ならば、神社の名前は「正勝」が正しいのでは? 町史を読み進むと、興味深い記述があった。「本神社境内の竹を旗ざおとするとき、戦いは必ず利ありとの説あり。よって当勝に改める」とある。霊験伝承だろうが、神社の名前を変えるほどの効果はあったのだろう。
4年前に「当勝神社」のお守りを手に受験に臨んだめいは、願いがかなって志望大学に合格し、来春から公務員として働くことが決まった。やはり、勝負に強い神様ということか。(神戸新聞 三上彰規)

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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